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小野寺系の『未来のミライ』評:いままでの細田作品の問題が、作家的深化とともに表面化

リアルサウンド

18/7/31(火) 10:00

 細田守監督の最新作『未来のミライ』に、SNSなどで容赦ない批判の声が浴びせられている。本編よりも、その開始前に上映された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』特報の方に話題が集中するという珍事まで起きてしまったほどだ。

参考:『未来のミライ』、厳しいスタート 前作『バケモノの子』から40%減の背景

 近年の細田作品は、公開規模の拡大も影響して、作家性の深化とともに賛否が飛び交うケースが確かに多くなっていたといえる。だが今回の『未来のミライ』については、否定的な声が賛辞の声を圧倒しているのだ。これは細田監督の劇場作品としては、いままでになかった事態である。

 果たして本作『未来のミライ』の映画作品としての出来は、実際どうだったのだろうか。ここでは本作の内容や、細田監督の過去作の比較などを通し、歯に衣を着せず批評しながら、なぜそのような否定的な意見が巻き起こったのかを考えていきたい。

■描かれるのは、小さな世界と大きな世界

 『未来のミライ』は、横浜の海沿いの景色を俯瞰した眺めを映し出すことから始まり、住宅地にある個性的なデザインの一戸建てへと寄っていく。そこが、本作の主人公である4歳男児“くんちゃん”の住む家だ。

 甘えん坊のくんちゃんは、赤ちゃんの妹“未来ちゃん”に、両親の愛情が奪われたと感じ始める。くんちゃんは嫉妬心をかきたてられ、親の注意をひくために「赤ちゃん返り」をしてしまうが、そういうときに、くんちゃんは木が生えている自宅の中庭から、過去や未来の世界へと導かれたり、過去や未来の家族と出会い、不思議な交流をすることになる。中庭からそれぞれの世界とつながることで、くんちゃんは妹・未来ちゃんの“お兄ちゃん”として成長していく。

 くんちゃんの人間的成長。これが本作が設定する物語上の第一目的である。ごく小さなスケールの達成であるが、それを日本で生きてきた祖先の歴史や未来と重ね合わせ、一人ひとりの存在が壮大な生命の流れの一部であることや、その土地が記憶してきた人々の営み、小さな一つの選択が重要な意味を持ち、歴史を作っていくという世界観を背後に提示するのがねらいだ。

 『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』や『サマーウォーズ』のような作品で発揮されていた細田監督の作家性の一つは、地球規模の危機と、生活にまつわるドラマやディテールを同時に描き、そこにリンクを持たせるということだった。それはつまり、『新世紀エヴァンゲリオン』以降に流行した、個人の小さな物語が世界の存亡とつながる、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるような系統に連なっていると感じる。その意味では、新海誠監督とも共通する部分があるように感じられる。

 本作はそれを、より一般的な舞台に移し替え、日本の家族を象徴するような、より普遍的で強い物語を作り上げようとしている。その作家性の深化は映画監督として必然的な流れだと思えるし、いままでの作品の要素が折り畳まれた本作が細田監督のキャリアの集大成であることも納得できる。何より、従来のアニメーションが陥りがちなジャンル的価値観から抜け出そうとする挑戦的な姿勢は評価したいと思える。

 だがその想いを受け取ったにせよ、そうでなかったにせよ、本作を退屈に感じた観客が多く生まれてしまったことは事実だ。そして、その理由が観客の理解力不足にあるという指摘をすることは、この場合は筋が違うように思える。なぜなら、ここで伝えようとしているメッセージは、まったく難解なものではないからだ。それが伝わらないとすれば、それは作り手の責任だし、作り手の意図を十分に理解したうえで、内容を批判している観客もいるはずなのである。

■くんちゃんの「成長」は本物なのか

 『未来のミライ』に存在するのは、主に2つの視点から見た家族の物語だ。一つは、4歳児から見た過去・現在・未来を含めた家族の話であり、もう一つは、親世代の目線からの、子どもが成長していく姿を追った話である。本作が「つまらない」と言われるのは、それぞれの話に異なる問題があるからだ。

 くんちゃんは両親から受けるべき愛を失ったと感じると、別の世界とつながろうとする。この現実世界からの脱走が並列的に何度も繰り返されるため、一つの物語が進行している実感が希薄で、オムニバスや、1話完結のドラマを連続で見ているような印象が与えられる。『バケモノの子』がそうであったように、現実世界と異世界を何度も往復することは、物語から緊迫感を奪ってしまうことにもつながる。そこで「退屈」という感想が出てくる。

 宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』は、千尋が大人の論理で動く異世界で能動的に冒険をして、自分の意志で様々な選択をしていくことで成長していた。対して、くんちゃんはあくまで“子どもの立場で”異世界に行き、“子どもとして扱われ”ながら、過去や未来の家族にささやかな影響を及ぼしているに過ぎない。さらにはクライマックスで妹の未来ちゃんを守ろうとするような状況も、くんちゃんの成長を促すために、異世界の側がわざわざ用意してくれた不自然なシチュエーションだとしか感じられない。

 つまり、ここでの「異世界」というのは、くんちゃんを一つの結論に導くためにお膳立てされたアトラクションや、教育ビデオの再生に他ならず、その背後には奥行きもなく、生きた人間も、イレギュラーな事態も存在しない。そこに本当の意味での成長や冒険があるだろうか。そして観客の側も、そんな表面的な世界での幻想体験を見て、わくわくすることは難しいだろう。

 そもそも、家族の中で兄としての役割を背負うという自覚を持ったり、気に入らない色のズボンを履く我慢をするために、果たして異世界や一族の歴史を遡ってまで助けてもらうような大掛かりな「奇跡」が必要あったのだろうか。国家や歴史、血筋を背景にするような、より大きな共同体に帰属することに救いを求めることが、果たして本当の「自立」なのだろうか。それは『新世紀エヴァンゲリオン』がすでに否定した価値観でもある。ピクサー作品『リメンバー・ミー』でも、家族のルーツが重要なものとして描かれていたが、家柄によって縛られる部分も描くことで、その功罪を示していたことを考えると、本作から得られるお手軽で無条件な自己肯定感というのは危うい。それは、スピリチュアル的思想への盲従だとすらいえるだろう。

■置き去りにされる観客

 日常的な子育ての描写というのも、本作の重要な要素であろう。だがこれも、「なるほど」と思えるような部分は少ないと感じる。子育てマンガや、ペット飼育マンガを読んでいると、経験者にしか描けないような具体的描写が次々に出てきて、その意外な事実に感心することが多いが、本作の描写は子育て未経験者の想定内に収まるものばかりで、想像や知識で作り上げられるようなレベルにとどまっていると思える。なので、子育ての描写が多いのにも関わらず、子育て映画としての充実感は薄い。

 「成長」を表現しようとするあまり、くんちゃんはほとんど問題児として描かれているところもある。嫉妬心が根底にあるとはいえ、無抵抗の赤ちゃんの顔をつねって爆笑したり、新幹線のおもちゃで頭を殴るということまでしてみせる。これはもはや成長以前に、くんちゃんの根本的な人間性に対し疑問を感じてしまうような不快なエピソードだ。赤ちゃん返りをして延々と泣き続けたり、「好きくない! 好きくないの!」と叫ぶたびに、くんちゃんを応援したり共感するような、こちらの気持ちが徐々に削られていく。そういう児童は現実に存在するのだろうが、なぜわざわざそんな人物の物語を見なければならないのか、反感を覚えた観客は少なくないはずだ。

 このように始終泣いてばかりいるような子どもの厄介さには、一定のリアリティを感じるが、たまに難しいセリフや理屈をすんなりと理解するような子どもらしくない場面もあったりなど、それぞれのシーンで、くんちゃんの設定はブレを見せる。例えば、くんちゃんが異世界の「王子」にひざまずく場面など、ギャグなのか何なのか判然としない中途半端なシーンに、いちいち観客がついていかなければならないため、混乱したりストレスが発生することになる。

■懸念されていた脚本力の低下

 細田守監督は、2000年近辺から監督として継続的に劇場版アニメーション作品を手がけ、その切れ味ある演出力によって注目を浴び続けてきた。『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』で、その手腕は一部で話題を呼んだ。いま見ても、この作品は細田監督の非凡さを説明するのにふさわしい勢いがある。

 さらに『時をかける少女』の内容的成功によって、才能あるアニメ監督として一般的に認知され始めた。コンスタントに劇場作品を発表し続けていくことで、次代の巨匠として「ポスト宮崎駿」とささやかれるようにもなった。

 まさに順風満帆といえる状況だったが、そんな快進撃の裏に大きな懸念材料があったことも確かだ。その一つが、脚本力の問題である。

 細田作品は、『時をかける少女』から、脚本家・奥寺佐渡子が脚本を担当してきた。実写監督の相米慎二監督に評価されることで、彼女の脚本家としてのキャリアが始まっているように、カメラの長回しや引いた構図、さらに『おおかみこどもの雨と雪』では、まさに『台風クラブ』の状況を再現するなど、相米監督の実写演出をアニメーションのなかで一部再現しているようにも見える細田監督の作家性と奥寺脚本は、やはり相性がいいように感じられる。

 その後、次第に細田監督自身も、劇場作品を作るたびに脚本に手を入れるようになっていく。『おおかみこどもの雨と雪』では細田監督が共同で脚本を書き、『バケモノの子』からは、おそらくアドバイスは受けながらも、少なくともクレジット上では、単独で脚本を書いている。いずれにせよ、脚本については細田監督の担当する分量が増えていっているのは確かだ。

 『バケモノの子』のぎこちない物語の進行からも分かる通り、細田監督が本格的に脚本を書き出してから、物語の展開や台詞などを中心に、クオリティー上の複数の問題が噴出し始めた。説明的な台詞が増え、テーマを直に語らせるようにもなった。本作の終盤で、成長した未来がくんちゃんに語りかける内容は、その最たるものであろう。

 思えば、細田監督の非凡さというのは、既存のアニメーションの常識を打ち壊すような描写の面白さにあったはずだ。きわめて商業的な内容で、テクノロジーを主要な要素とするはずの『デジモンアドベンチャー』に、生活のリアリティや、暴力のおそろしさを植え付けようとするなど、ある意味でジャンルを否定するような反逆的描写にこそ、パンキッシュな快感が存在していたはずだ。そこには「アニメをなめるな!」という迫力があった。しかし、監督自身が次第に作品世界を一から構築し始めたことで、カウンター精神や勢いは徐々に失われてきたように感じられる。

 宮崎駿監督は、設定も演出も絵コンテも、そして発想力も、スタッフの誰より抜きんでているような圧倒的存在である。そこまでのオールマイティーな技量があるわけではない細田監督が、そんな怪物的な才能に近づき、乗り越えるような作品をつくるためには、こだわりを捨てて適材適所の異なるスタッフの才能に、作家的役割を分担させるしかないのではないだろうか。そのためには、万能的な監督としてのイメージから脱却し、得意な部分に注力するような思い切りが必要だと思える。

■払しょくされなかった監督の女性観

 もう一つの問題は、細田監督の持っている独特な「社会観」だ。『おおかみこどもの雨と雪』では、ひたすら献身的に子育てをする母親を主人公として描いたが、その描写が、主に女性の観客の反発を招いた。表面的には女性を尊敬しているように見えて、その裏には母性を神々しく理想化し、子育ての役割を押し付けようとする男性独特の身勝手さがあることを、そういった問題に日々直面している敏感な観客に見抜かれてしまったのである。

 細田監督の近年の作品は、自身の実生活に連動している部分がある。女性の頑張りを賛美するという要素には、配偶者への感謝の念の表れという、プライベートな意味もあるだろう。だがそこに悪意がないからこそ、無意識下の偏った男女観というものが表に染み出てしまった瞬間に、取り繕った表面的な低姿勢が、逆に“癇(かん)にさわる”ことになる。

 面白いことに本作は、“くんちゃんの父親”というかたちで、表面上、女性にいい顔をしてしまうという自身の作家性へのアイロニカルな言及がある。そして、妻に「(女性に)見透かされている」と劇中で指摘させることで、問題を自己分析できているところを、暗に観客にほのめかしているのだ。働くママと、主夫業に奮闘するパパという、細田作品ではいままでなかった、家庭の関係性の変化を見せることも、そこへの対抗措置と言って差し支えないだろう。

 だが成長した未来が、「行き遅れ」を深刻に気にしたり、お雛様を欲しがるくんちゃんに、母親が「男の子でしょ」と言い放つ場面を、とくにエクスキューズなく描いてしまうような状況を見ると、細田監督の女性観の問題というのは、根本的なところで払しょくされたわけではないことが分かる。これは細田監督の内面のみにとどまる問題ではない。女性をある範囲に押し込めるような意識を持った作品は、女性を社会的に追い詰める空気を醸成することに加担してしまうことになる。本作を見ると、細田監督はまだあまりその深刻さを理解できていないのではと思えてしまう。

 もちろん、日本のアニメーションの作り手全てが、そのような保守的価値観に縛られているわけではない。細田監督は、かつてTVアニメ『少女革命ウテナ』のエピソード演出をいくつか手がけているが、この作品こそ、女性に与えられた役割を否定し、少女たちが「革命」を成し遂げていくテーマを持っていた作品だった。それを中心になって手がけた幾原邦彦監督や、脚本の榎戸洋司らは、いまだ男女の役割を区分けする日本の旧弊な社会を革新する意志を明確に持っていた。その後に作られた細田監督作品は、明らかにそういう社会観から後退したものになっている。

 だが、本作のメッセージに良い点がないわけではない。子どもは親の教育だけでなく、ある程度勝手に学習し、自分の力で様々なことを学んでいくものである。くんちゃんの両親が「(親の教育は)最悪じゃなければいい」と語り合うように、親の役割を一部取り除くような表現をしているところは進歩的な部分だといえるだろう。

 『未来のミライ』は、いままでの細田作品の問題が、作家的深化とともに一気に表面化してしまった作品だといえるだろう。そしてそれは、細田守監督の限界を強く意識させるものだった。その演出力才能を再び発揮させ、日本映画の第一線にとどまろうとするならば、新しい発想のプロデュースが不可欠になるのではないだろうか。(小野寺系)

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