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『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』なぜ圧倒的な美しさを獲得できた? 作品のメッセージを考察

リアルサウンド

19/6/7(金) 10:00

■史上空前の美しさを持つゴジラ映画

 青白く輝く光の柱が暗雲を貫き、雷撃が中空を駆け抜ける。哀れで無力な人間たちは、巨大な生物たちの強大な力のぶつかり合いに吹き飛ばされ、蹂躙されていく。そんな地獄のような世界が、おそろしく荘厳に、美しく描かれていく。かつて、これほどまでの恍惚を味わえる“怪獣映画”があっただろうか。

参考:ゴジラへの暴走気味の想いが短所であり長所にも 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の美学

 今回のハリウッド(レジェンダリー・ピクチャーズ)版ゴジラ第2作は、メインとなるゴジラ以外に、日本でおなじみの怪獣たちであるキングギドラ、モスラ、ラドンらが登場し、熾烈なバトルを繰り広げる一大巨編となった。内容は、東宝映画『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)を彷彿とさせるが、その題名は、東宝第1作『ゴジラ』(1954年)がアメリカ向けに編集された、“Godzilla, King of the Monsters!『怪獣王ゴジラ』(1956年)”と同じく、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』となった。

 言うまでもなく、“ゴジラ”は日本映画を代表するビッグネーム。そのブランドを借りたアメリカ製『ゴジラ』は、日本をはじめ世界のゴジラファンから、厳しい目で見られるケースが少なくない。なかでも、最初にアメリカでリメイクされたローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』(1998年)は、「こんなものはゴジラじゃない、“GOD”を抜いた、ただの“ZILLA(ジラ)”だ」と言われたり、最低リメイク賞を受賞、いまだにファンの多くから忌み嫌われ続けている。

 だが、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の監督・脚本を務めたマイケル・ドハティは、自称する通り、子どもの頃からの筋金入りのゴジラファン。本作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、東宝特撮映画に心酔する、『シン・ゴジラ』(2016年)の庵野秀明監督と同じく、ゴジラファンによるゴジラ映画なのである。ここでは、そんな本作が描いたメッセージとは、いったい何だったのか、そして、なぜ圧倒的な美しさを獲得できたのかを明らかにしていきたい。

■かつてない東宝シリーズへのリスペクト

 本作は『三大怪獣 地球最大の決戦』以外にも、多くのシリーズ作品からの引用が見られる。例えば、今回初登場する三本首の怪獣、キングギドラが「モンスター・ゼロ」と呼称されるのは、『怪獣大戦争』(1965年)における“X星人”の表現である「怪物ゼロ」を踏襲しているし、怪獣たちを文明的な装置によって操るというアイディアも、この作品から着想を得たものだろう。また戦闘においては、『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)を想起させる描写もある。さらに、自然環境と人間の公害を中心に据える題材は『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)、悪魔的最終兵器の存在や、日本の研究者“芹沢博士”が重要な役目を果たすという展開は、第1作『ゴジラ』を基にしている。

 また今回はスコアの中に、伊福部昭や古関裕而の楽曲がアレンジされているのも特徴だ。とくに、ゴジラシリーズに連綿と受け継がれてきた伊福部による畢生のテーマ曲は、過去のゴジラ作品に精通していればいるほど、この境地に達する楽曲を作ることが、いかに困難なのかということを知っているはずである。だからこの曲や、そのフレーズを東宝のシリーズは手放せず、当然『シン・ゴジラ』でも使用されていた。本作では比較的大胆なアレンジが加えられているとはいえ、ドハティ監督もやはり、ゴジラファンとして同じ思いだったのではないだろうか。

 このように、東宝のいままでのシリーズから様々な要素を抽出し、それらを材料に新たに組み上げたのが本作なのである。ここでは、ゴジラという題材を使って何かを表現するというよりは、“ゴジラ映画そのものを描きたい”という欲望が優先されているように見えてしまう。

 アメリカの映画評論家の評価が集められたサイトによると、本作は半数以上のアメリカの批評家から否定的な評価を受けているようだ。面白いのは、対照的に観客からは大きな支持を受けているという点である。このような結果になったのは、作り手側があまりにゴジラ映画に耽溺し過ぎているきらいがあり、脚本においても、映像表現においても、バランス感覚が失われているという見方がされているからのように思われる。

 とはいえ、だからこそ、そこにはほとばしる情熱と、作り手の大いなる喜びが溢れているともいえよう。その想いの大きさは、ファンはもちろん、東宝シリーズをほぼ知らないようなアメリカの観客にも、何か感じるところがあったのではないだろうか。本作はテクニックを超えた、感性や感情に訴えかける部分を持った作品なのである。冷静に頭で判断するような批評家には評価し得ない領域での“何か”が、そこに渦巻いているのである。では、それは何なのか。

■荘厳な宗教画としての怪獣バトル

 ゴジラ作品としての前作にあたる、ギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』(2014年)は、怪獣バトル映画としての評価こそ賛否が分かれるものの、東宝第1作『ゴジラ』における、ポリティカル・サスペンスとしての要素を抽出し、中心に据えた作品解釈が秀逸だった作品だ。その演出部分では、怪獣の登場シーンを絞ることでサスペンス性を高め、限られたシーンに力を集中することで、異様ともいえる映像美を作り出していた。そんなエドワーズ監督のアプローチとは対照的に、本作の怪獣たちの活躍場面は非常に多く、大盤振る舞いといえる内容になっている。それにともなって製作費は、前作の推定160億円から、ハリウッド映画のほぼ上限といえる、推定200億円までにアップしている。

 前作『GODZILLA ゴジラ』の大きな見どころの一つが、怪獣の効果的な見せ方だった。ゴジラの各部位をそれぞれ映し出していく演出はもちろん、ゴジラの身体の手前部分を鮮明に、奥側を霞ませて表現するという、いわゆる「空気遠近法」を利用して、その巨大さを“幽玄”とでも表現したいような、一種のロマンティックなムードを醸成しながら強調していた。だからこのシリーズでは、往年の特撮ファンの言うような、怪獣と一緒に建物を映すことで、その大きさを表現するというような手法を、必ずしも駆使しなくとも、巨大な怪獣のリアリティある映像が実現されているのである。

 本作は、怪獣の登場以外に、多くの激しいバトルシーンにおいても、その手法を受け継いでいる。それは、あたかもロマン派の巨匠ウィリアム・ターナーの筆致のような繊細な感覚で描かれ、そして同時に“最後の審判”が描かれた宗教画のように、荘厳な終末感に満ちている。本編で「タイタン(巨神)」という言葉が使われているように、怪獣たちの殺し合いを神話の世界の戦いとしても捉えているのだ。それは、キリストが幻視したとされる、この世の終わりを記述した『ヨハネの黙示録』のようでもあるし、北欧神話における世界の終末である「ラグナロク(神々の黄昏)」を表現しているかのようでもある。

 美術の世界において、作り手のインスピレーションを最も高い次元に押し上げる究極の表現形態を一つ選ぶとすれば、それは神をモチーフにした宗教的な作品であろう。なぜなら、神は常識や固定観念をはるかに超えた存在であり、それを表現するために、芸術家はリミットを解放して自己の創造し得る限界を作品にぶつけられるからである。本作の巨神たちの戦いの、言葉にできないほどの美しさというのは、ただの設定としてだけではなく、本当に神を描こうとする意志からきているはずである。

■“怪獣こそが神”という価値観

 本作は、前述した怪獣以外にも、次々に怪獣が出現し、これまで地球上を我が物顔で支配していた人間たちの文明は終わりを迎えることになる。レジェンダリー・ピクチャーズの怪獣映画シリーズの世界“モンスターバース”は、ここにおいて、その名の通り怪獣中心、怪獣のための世界となったのだ。人間はそのなかで、ただ自分たちの命を守るためにうろちょろ逃げまわるだけの虫のような存在でしかなくなってゆくのかもしれない。本作は、脚本の面からも、そのような世界を受け入れる価値観が、あたかも正しいことのように描写されている部分がある。その、一種のマゾヒズムといえるような卑屈さからは、本気で怪獣を神と崇めているような凄みを感じるのだ。

 だが、そのテーマは、じつはギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』においても顔を見せていた。もともとの東宝版第1作は、アメリカの水爆実験で日本の漁船が被ばくした「第五福竜丸事件」への不安と、それによって引き起こされる広島・長崎への原爆投下、空襲における恐怖の記憶が基になっていたように、『GODZILLA ゴジラ』では福島の原発事故と、そこから引き起こされる汚染への不安が、「ムートー」と呼ばれる怪獣のかたちとして表現されていた。そしてゴジラは、そのような人災すら飲み込もうとする、人間を救い、同時に命をも奪うという、“大いなる自然”の象徴となっていた。

 本作ではそれがさらに推し進められ、自然の象徴である怪獣がいなければ、人間すら滅びてしまうという切迫した事態が描かれ、その手助けをしようとする人間たちまで現れる。たしかに核の汚染や、二酸化炭素の増加による温暖化などの環境破壊によって、人間は自分たちを滅亡へと進ませているのかもしれない。怪獣の出現が、本作で言及されるように、自然のバランスを保とうとする地球の意志であるのならば、それに逆らうことは、人類の自滅を意味することになるだろう。

 渡辺謙が演じる芹沢博士が、要人たちの前で「われわれ人間側が怪獣のペットとなるのです」と発言して、あたかも異常者のように扱われていたように、もしもある学者が、政府や企業に対して、「いま環境破壊が深刻な状態にあって、われわれは滅びる寸前にある。だから経済活動を3分の1に縮小せよ」と提言したとしたら、精神に異常をきたしたと判断され、排除されるかもしれない。しかし、その学者の言う通りであったとすればどうだろうか。狂っているように見える学者こそが正常で、悠長に構えている人々こそ異常であるという、価値観の転換。それはローランド・エメリッヒ監督の撮った『GODZILLA』における、あくまでただの生物として、人間の下にゴジラを置こうとしていたような態度とは真逆の姿勢といえよう。

 これこそが、ある意味でドハティ監督の偽らざる本音なのかもしれない。彼は、本作のなかで“怪獣至上主義”という価値観を、一種の狂気をもって打ち出しているのである。特撮映画マニアのように、世間一般から理解されにくい人々の価値観こそが、あたかも本道であったかのように脚本を作り上げ、演出を施したのだ。少なくとも、この映画のなかで怪獣は神にも等しい存在であり、それを信奉し、布教している自分こそが、神の意志を伝える伝道者……つまり、真の怪獣ファンなのだと。

 まさにこのような、周囲からは異常とも思える振る舞いが、本作の描写を、孤高の美へと押し上げているのではないだろうか。

■人類の限界を超えるための狂気

 もう一つ言及しなければならないのは、本作における芹沢博士についての描写である。ローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』では、ゴジラの発生した原因を、公開当時問題だとされていた、フランスの核実験であると描いていた。ご丁寧に、ジャン・レノ演じるフランスの諜報員が、自国の罪を反省する場面すらある。

 フランスの核実験が、国際的な問題となっていたのは確かだ。しかし、それをアメリカ側が一方的に断罪するというのは、倫理上の疑問があるのではないだろうか。ここではチェルノブイリの事故なども言及されるものの、アメリカがかつてビキニ環礁で水爆実験を行い、まさに東宝第1作の基となった「第五福竜丸事件」のような被害を引き起こしたこと、そして広島・長崎において、一般市民に向けて核兵器を使用したことについては、歴史上なかったように振舞っていたのである。

 ギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』が画期的だったのは、芹沢博士というキャラクターや、あるアイテムを登場させることで、アメリカの過去の罪をアメリカの娯楽映画のなかで暗示するという部分があったという点である。芹沢を演じた渡辺謙のアイディアも採用されているらしいが、ここには、エドワーズ監督がイギリス出身であることからの客観性と、以前に監督が広島の原爆被害についての映画で特殊効果を担当していたという経験が活きているのではないかと思われる。芹沢博士は広島への原爆投下によって父を亡くしており、その悲劇から、最後までゴジラに対する核攻撃に反対するのである。

 本作では、そんな芹沢博士の物語が、いったん終わりを迎える。ゴジラは本シリーズにおいては自然の象徴であるが、核を動力源とする存在でもある。芹沢は、忌み嫌っていた核兵器を、再びゴジラに使用することで、世界を救おうとする。矛盾した行動のように感じられるが、これは東宝第1作で描かれた、ゴジラと芹沢博士の構図を再現させたものだといえよう。

 東宝第1作において、芹沢博士は自分が発明してしまった、広範囲の酸素を破壊し、生物の肉体を崩壊させるという最悪の兵器「オキシジェン・デストロイヤー」を使用して、ゴジラを絶命させる。その際、芹沢はこの兵器を発動させることについて苦悩していた。そして最終的に、自分もゴジラと運命を共にすることで、この兵器を戦争に利用させないという選択をしたのだ。ゴジラは、戦争の惨禍や過ちを忘れかけようとしている日本社会への、過去からの怨念としての意味もあった。だから、それを鎮めるためには、原爆と同等の兵器を発明した、罪深い人間の代表による贖罪と犠牲が必要だったという解釈もできる。

 本作の芹沢もまた、オリジナルの芹沢に近い苦渋の選択を受け入れる。だが、その目的は、東宝第1作とは、むしろ逆だといえよう。彼はゴジラを殺すのでなく、生かすために、オキシジェン・デストロイヤーと同格の、悪魔の兵器を使用する。その流れが導くメッセージとは、ゴジラが自然の怒りの化身であり、人間を断罪する象徴であるのならば、それを生かし続けることが人間の唯一の生き残る道だということである。

 人類が怪獣を絶滅させた先にあるのは、終わり無き戦争と、環境の汚染である。人類は自らを殺すように、滅亡の一途を辿っていくことを避けられない。過去の失敗を忘れ、その犠牲から顔を背けることで、過ちは何度でも何度でも繰り返される。それは悲観的な目で見るのなら、人類自身が、その発生時から運命づけられた、種としての限界だったのかもしれない。

 そんな哀れな種が遠い未来まで生き残るためには、自らの過ちの象徴を消すことをせず、いつまでも畏れ続け、太古の昔、自然を神として敬っていた謙虚な姿勢を取り戻すという手段しかない。本作は、そこまで見通した作品なのだ。その意味では、本作は『シン・ゴジラ』とメッセージを共有し、さらにその徹底性において、一歩進んだものになっているといえよう。

 怪獣を地球の王として君臨させ、人間はそのペットのような存在に成り下がる。それが表すのは、人間の生き残る最終手段としての“戦略的後退”である。この提言を異常と見るか、それとも正常と見るか。それは、観客一人ひとりの判断に委ねられている。(小野寺系)

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