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『きのう何食べた?』が伝えた、大切な人と共に生きていくこと 名シーンの数々を振り返る

リアルサウンド

19/7/2(火) 6:00

 『きのう何食べた?』(テレビ東京系)が幕を閉じた。今、胸に溢れるのは、寂しさでも、名残惜しさでもなく、「またね」と小さく手を振るような晴れやかな気持ち。この3カ月間、僕たちは(少なくとも僕は)たくさんの大事なことをこのドラマから教えてもらった。

 シロさん(西島秀俊)とケンジ(内野聖陽)。2LDK男2人暮らし。食費は、2万5千円也。いわゆるトレンディドラマに出てくるような豪華なマンションではない。あるのは、使い勝手の良さそうなカウンターキッチンと、4人掛けの木製テーブル。そして、ふたりの地味で、大きなことは何も起こらないけれど、心がほっこり温かくなる日常。そこには、人と人が生きる上で大事にしたいことがたくさんつまっていた。

 贅沢なんてしなくてもいい。でも、毎日食べるものにほんの少し知恵と手間をかけること。人に料理を振る舞われたら、ちゃんと感謝と感想を伝えること。たとえケンカしても、気まずくても、忙しくても、日々の食卓を共に囲むこと。

 共に食べるということは、共に生きるということだ。性格は正反対のふたりだけれど、毎晩同じものを食べることで、少しずつ心を寄せ合っていった。

■ひとりでも生きられる時代に、ふたりで生きるということ

 忘れられない名場面はたくさんあるけれど、個人的に心に残ったのは第4話。お父さん(志賀廣太郎)の入院によってシロさんの実家は慌ただしさに揺れていた。そんなとき、ケンジが「入院の付き添いはよく手を洗うから」と言い添えてそっとプレゼントしてくれたのが、ミニタオル。そして、「家が散らかっていると気持ちが荒むから」と家事を片づけて、シロさんが心落ち着ける場所をつくってくれた。

 たぶんひとりだったら、シロさんはもっと不安だったと思う。でも、ケンジはそんなシロさんの心境を労り、想像を働かせることで、シロさんの心細さを救ってくれた。優しさとは想像力なのだと、ケンジが教えてくれた。

 今の時代、ひとりで生きていくことだってもちろんできる。それは全然寂しいことでもないし、人から咎められるようなことではない。胸を張って、ひとりで生きる人生を選びたい。でも、同じように、誰かと共に生きる人生もまた素晴らしいものだと、決して押しつけがましくないタッチで気づかせてくれたのが、この『きのう何食べた?』だった。

 最終回で「もう、俺、ここで死んでもいい」と泣きながら幸せを噛みしめるケンジにシロさんは言った。

「何言ってるんだ。死ぬなんて、そんな、そんなこと言うもんじゃないよ。食いもん、油と糖分控えてさ、薄味にして、腹八分目で、長生きしような、俺たち」

 シロさんも、ケンジも、お互いをとても大事にしている。だからケンジはちゃんと言葉にして気持ちを伝えるし、シロさんは日々の料理やさり気ない態度、心遣いで愛情を表現する。

 自他共に認める通り、もういい年をしたおっさんだ。40を過ぎたカップルが、こんなに初々しく相手を大事にできるなんて現実では難しいことかもしれない。でも、もしふたりがどうしてこんなにちゃんと相手を大事にできるのか、その理由を挙げるとすれば、ふたりが同性カップルだからなのかもしれない。

 一部地域でパートナーシップ宣誓制度が開始されているものの、現時点で日本国内において同性結婚は法的に認められていない。また、同性カップルの里親認定もまだまだレアケース。「子は鎹」と言うが、彼らが自分の子を持つことは、とても難しい。

 自分たちの関係を固定化してくれる法律も子どもも持たない彼らが、終生共に歩んでいくために必要なものは、当人同士の意志だけ。お互いが、お互いをちゃんと愛し続けること。共に生きることに、幸せを感じられること。それはもうほとんど奇跡のようなもので、だからその奇跡をどこかでなくしてしまわないように、ぎゅっと抱きしめて、大事にする。

 でもそれは同性カップルだけに限ったことではなくて。人と生きることを選んだすべての人が、本当はそうしたいと願っているのだと思う。でも、現実は思うようにいかなくて、どうしても相手に対する愛情や敬意は時と共に鮮度を失ってしまう。そして、満ち足りない想いだけが降り積もる。

 この春、シロさんとケンジの日常に多くの人が心を癒されたのは、人と共に生きていく上でいちばん大事にしたいことを、彼らが見せてくれたからなんだと、全12話を見終えて、はっきりと思った。

■原作の良さを活かしたドラマ制作者たちのプロフェッショナルなアレンジ

 また、ドラマづくりという視点で見ても、『きのう何食べた?』は非常に高い完成度を誇っていた。個人的に最も優れていると感じた点は、原作にリスペクトを払いつつ、ドラマにする上でどうアレンジを施せばいいのか、プロのセンスがふんだんに盛り込まれていたことだ。

 多くの人が指摘する通り、第8話で登場したテツさん(菅原大吉)の「僕が歯を食いしばって貯めた金を、田舎の両親にびた一文渡したくないんです」という台詞は、原作では目尻の垂れた穏やかな表情で、さらりと語られていた。しかし、ドラマではテツさんと両親との長年に渡る葛藤と軋轢が、言葉にしなくても伝わる渾身の一言として生まれ変わっていた。

 第10話で、自らが不貞を働いたことのある罪悪感からシロさんの浮気を疑ってしまうケンジの自己嫌悪にまみれた台詞も、原作ではもっと何気ない一コマだった。だが、ドラマでは内野聖陽の真に迫る泣きの演技で、ぎゅっと胸が締めつけられる圧巻の名場面となった。

 もちろん原作の余白を活かした淡々としたタッチも素晴らしい。でも、紙だから心地良いものと、生身の人間を通すことで伝わる感情や葛藤は違う。ここをきちんと分けて、ドラマにした制作者たちの感性は、今後の原作モノのドラマ化におけるひとつのお手本になったと思う。

 脚本・安達奈緒子による構成の妙も鮮やかだった。台詞はかなり原作に忠実だが、登場するエピソードの順番は細かく組み替えられていた。

 その配置の巧みさに唸らされたのが、最終話。メインは、シロさんがケンジを連れてお正月に実家を訪れるエピソードだ。「俺、ここで死んでもいい」とケンジが涙を流すのは原作通り。ドラマとしてはここで締め括っても十分に劇的だったと思う。

 だが、その後日談として、原作では実家訪問回の数話後に登場した、本当は苦手な女子受けのいいカフェにシロさんが同行した理由を語るエピソードを追加。さらに、そこに原作の第1話で描かれたケンジがシロさんの襟足を切るシチュエーションを融合し、ドラマオリジナルのエンディングを生み出した。

 このラストは、ドラマの第1話でお客さんに自分の話をしたケンジにシロさんが怒り、ケンカになるエピソードとの対比となっており、シロさんがまだまだ偏見の多いこの社会で、自分たちがどう見られるかを受け入れていく心境の移り変わりを表現していて見事だった。あの無音のバックハグには、お互いの体温も、シワも、白髪も、薄毛も、すべて受け入れ愛していくような優しさが溢れていて、ある人はときめき、またある人は苦しかった胸の内を吐き出すような涙を流したんじゃないかなと思う。

 まさに、素材の良さを活かしてアレンジを加える、おいしい夕食のようなドラマ化だった。いつかまた西島秀俊演じるシロさんと、内野聖陽演じるケンジに再会できる日が来るはず。そう信じて、料理が苦手な僕もちょっとは食卓にこだわろうと思う。まずはサッポロ一番からでも。(文=横川良明)

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