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アニエス・ヴァルダ追悼 貴女と我等の合言葉ーーさようなら、そして今日は

リアルサウンド

19/4/14(日) 10:00

 フランスの女性映画作家アニエス・ヴァルダが現地時間3月29日、癌のため、パリのダゲール通りにある自宅で息を引き取った。90歳だった(1928-2019)。ベルギー出身の彼女は写真家をへて映画監督に転身したが、ほとんど下積みを経験することなく、フランス・ヌーヴェルヴァーグの重要な存在となった。ヌーヴェルヴァーグには「右岸派」と「左岸派」がある。ゴダール、トリュフォー、ロメール、シャブロル、リヴェットなど、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に批評を書きつつ映画作家となった一派は、「カイエ」の事務所がセーヌ川の右岸にあったことから「右岸派」。一方、アラン・レネ、ジャック・ドゥミ、クリス・マルケルなど、モンパルナス界隈にたむろしていた若者たちが「左岸派」。アニエス・ヴァルダは「左岸派」だ。

 ヴァルダのことを「ヌーヴェルヴァーグの祖母」と呼ぶことがある。でもこの呼び方はおかしい。ヌーヴェルヴァーグは1920年代後半から30年代に生まれたたった1つの世代しか指さない用語だから、後付けにすぎない。しかし2017年の米アカデミー賞の名誉賞を受賞した時のYouTubeの公式動画を見てみると、プレゼンターのアンジェリーナ・ジョリーは動画の0:15あたりで確かに「She was called “the grandmother of French New Wave”. (彼女はフレンチ・ニューウェイヴの祖母と言われていました)」と言っている。ただしその直後に「…when she was thirty. (まだ30歳だったのに)」と言い添えて会場内の笑いを取った(ちなみにヴァルダ自身の受賞スピーチは動画内を参照)。とにかく、ややもすると社会不適合な男性シネフィル(病的なほどの映画狂)の一群と思われがちなヌーヴェルヴァーグにとって、数少ない女性側の視線をシネマに鋭くさし向け続けたアニエス・ヴァルダの存在は、果てしなく大きい。

●夫ジャック・ドゥミとの別れ
 彼女の夫は、『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』など名作ミュージカルで知られる映画作家ジャック・ドゥミ(1931-1990)。港町で育った彼の映画にはたくさんの海が出てくるが、やはり港町育ちの妻アニエスもまた、海の、浜辺の映画作家である。自伝的映画を『アニエスの浜辺』(2008)と名づけてしまうほどに。ところが興味深いことに、海と浜辺の映画作家アニエス・ヴァルダは、水の映画作家ではない。彼女の映画の登場人物たちがまばゆい太陽光線をあびつつ、楽しそうに水着となって海水に飛び込む光景は、ほとんどないと言っていい。つねに浜辺の砂地にカメラを据えておきながら、水はなにか不吉なものとして忌避される。彼女の被写体となる海の人々は、もっぱら漁師や港湾労働者といった人々であり、彼女の映画では水着や海水浴よりも、地引き網、あるいは積載コンテナのほうが重要なのだ。生活や労働の場としての海、あるいは思考の場としての海だ。バカンスの海は、そこにはない。

 水が彼女にとって不吉なものである例証として、ベルリン国際映画祭で銀熊賞を獲った長編第3作『幸福(しあわせ)』(1965)を挙げるだけでじゅうぶんだろう。脳天気な夫が馬鹿正直に不倫告白をしたせいで、妻は近くの池で入水自殺する。長編第1作『ラ・ポワント・クールト』(1955)の海も、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲った『冬の旅』(1985)の海も、主人公たちのすぐ目の前に広がってはいるが、主人公たちを冷たく突き放す。海はその雄大さによって、むしろ人間の孤立無援を暴き立てる装置のように見える。その最も印象的な局面として、死期の近い夫をホームムービーで撮影した『ジャック・ドゥミの少年期』(1991)の、海辺に横たわる夫ドゥミが砂を手に握るシーンが思い出される。一握の砂はむなしく指のあいだをこぼれ落ちていく。夫には生きる時間がほとんど残されていない。

 1990年10月に夫と死別してからのヴァルダは、自己省察の度合いを深めていく。『幸福』や『冬の旅』のような孤立無援をみずから追い求める挑戦的な作風は消え、その代わりに、「天才」と謳われながらもその才能に見合った活躍の場を与えられなかった夫ジャック・ドゥミの追善供養と再評価の促進に努めつつ、自己省察的なドキュメンタリーとフィクションの折衷的作品が増えていく。後期ヴァルダはエクレクティスム(折衷主義)の映画である。死亡当時、ドゥミの死因は癌とされたが、『アニエスの浜辺』(2008)の中でヴァルダは、夫がエイズで死んだことを告白している。その際のヴァルダのなんとも言えない表情の中に、彼女がエクレクティスムに傾斜していくわけが滲み出ているように思える。

●ゴダールからの最後の挨拶
 折りにふれてヴァルダは、自分が男女同権論者だと発言してきた。職業的な女性映画監督として先駆的な存在である彼女は、孤立無援もいとわず、自由と孤独を同時に引き受けた。写真の発明者ダゲールにちなんだパリ14区のダゲール通りにあるヴァルダ&ドゥミ夫妻の自宅には細長い中庭があり、中庭の右側の棟ではジャック・ドゥミが音楽家ミシェル・ルグランと新作実現の可能性を練り、左側の棟の2階では妻ヴァルダがミシェル・ピコリを呼び寄せ、『創造物たち』(1966/日本未公開)の撮影をおこなっている。映画作家として、妻として、2児の母親として、ヴァルダは自分の身体を繊細かつ折衷的に切り分けながら生きた。そのオープンでユーモアのある人柄は周囲の人々をいきいきさせる。しかし、死の影がつねにそこにあったこともまた確かである。

 先述のように、『幸福』の夫は自殺した妻を近所の墓に埋葬しなければならないし、『5時から7時までのクレオ』(1961)のコリーヌ・マルシャンは癌の精密検査の結果待ちに怯えながら、パリの街をさまよわねばならず、『冬の旅』のサンドリーヌ・ボネールは見知らぬ地方で野垂れ死にしなければならない。さらに、自己省察の度合いを深めた後期ヴァルダ映画では、数多くの墓参りが描かれる。昨年日本で公開された『顔たち、ところどころ』(2017)では、敬愛する写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの墓参りをし、生前よくしてもらったヌーヴォーロマンの女性小説家ナタリー・サロートの生家に立ち寄って、在りし日の交わりに思いを馳せる。

 ところで余談ではあるが、埋葬・墓参りと言えば、彼女はドアーズのボーカリスト、ジム・モリソンの埋葬に立ち会った数少ない一人だ。1968年から70年のあいだアメリカ西海岸に滞在したヴァルダ&ドゥミ夫妻は、ドアーズのメンバーと友情を結んだ。69年のマイアミ公演中、ステージ上での自慰行為で有罪判決を受けたジム・モリソンはライブ活動を停止、71年春にパリに転居した。彼がパリの自宅で死んでいるのを目撃したヴァルダは、ペール=ラシェーズ墓地での埋葬にも立ち会っている。

 『アニエスの浜辺』ではもちろん、モンパルナス墓地にある夫ドゥミの墓参りシーンもある。30年近くにおよぶ長い寡婦としての生をへて、ヴァルダ自身、空想の中でいくどとなく自分を死なせ、埋葬させたにちがいない。「浜辺に戻った私は、後ずさりで歩く。この映画のように……」と言いながら、じっさいに砂浜の上を後ろ向きに遠ざかってみせる。フランソワ・トリュフォーが真っ先に若くして死に、ドゥミ、ロメール、シャブロル、リヴェット、クリス・マルケル……みな鬼籍に入った。生き残ったのはヴァルダ、そしてゴダールとジャック・ロジエの3人のみ。『顔たち、ところどころ』のラストで、彼女はスイスの寒村に、かつての盟友ジャン=リュック・ゴダールの自宅を訪ねる。電話で約束しておいたのに、玄関をノックしてもゴダールは出てこない。近くのレマン湖で涙を流すヴァルダ。これが今生の別れだと分かっていたからだろう。水の近くではやはり、良いことも悪いことも同居している。

 一方、不機嫌な独居老人となり果てたゴダールにはもう、古い友人をどうやって歓待してよいか分からないのかもしれない。しかしこれはすれ違いではない。ゴダールが約束を破るのも彼女の演出のうち。玄関のガラスにはゴダールの筆跡でこう書いてあった。「à la ville de Douarnenez. du côté de la côte.」(ドゥアルヌネの人たちへ。コートダジュールの方へ)ドゥアルヌネとは、かつてヌーヴェルヴァーグの若者たちが集まったモンパルナスの店の名前。『コートダジュールの方へ』は1958年に彼女が撮った短編のタイトルで、翌59年にアラン・レネの『ヒロシマ、モナムール(24時間の情事)』の併映作として公開された。この玄関の書き込みに対して「面白くない」とおかんむりのヴァルダだが、一方でこれがゴダールから友への挨拶であることも知っているのである。つまり、またどこかで再会するための「さようなら、そして今日は」という合言葉として。そして私たち観客もまたこの「ドゥアルヌネ」「コートダジュール」と暗号化された合言葉を、よろこんで共有する。さようなら、(そしてまたいつか)今日は!
(荻野洋一)

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