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『ファントム・スレッド』はオートクチュールのような逸品に 巧みにデザインされた男と女の物語

リアルサウンド

18/6/4(月) 12:00

 ロシアの文豪、トルストイいわく「愛は惜しみなく与えるもの」。それに対して、日本の作家・有島武郎は「愛は惜しみなく奪う」と言った。誰かを愛した時、自分が求めたものが得られないとしたら、それを諦めるべきなのか。それとも、惜しみなく奪うのか。ポール・トーマス・アンダーソン監督の新作『ファントム・スレッド』は、お互いに求めたものが得られなかった恋人たちの物語だ。

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 物語の舞台は50年代のロンドン。ファッション界に君臨するデザイナーのレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)は、生涯をドレス作りに捧げてきた。仕事以外のことはまったく興味を持てず、自分の美意識のみを信じて生きてきた気難しい子供のような男だ。そんなレイノルズを見守り、レイノルズのメゾン、“ハウス・オブ・ウッドコック”を取り仕切っているのが、レイノルズの姉・シリル(レスリー・マンヴィル)。2人はどちらも独身で、“ハウス・オブ・ウッドコック”に引きこもるようにして生きていた。

 才能があってハンサムなレイノルズを女性が放っておくわけはなく、レイノルズには恋人がいた。ただ、レイノルズが女性を本気で愛することはなく、彼が求めたのは完璧なバランスを持った肉体だ。レイノルズにとって恋人は生きたマネキンであり、彼女たちが自己主張しはじめるとレイノルズは苛立ち、手切れ金代わりにドレスを与えて別れていた。そんなある日、レイノルズは別荘に向かう途中で立ち寄ったレストランで、ひとりのウェイトレスに目をとめる。彼女の名前はアルマ(ヴィッキー・クリープス)。目の覚めるような美女ではないが、彼女はレイノルズが求める理想の肉体を持っていた。

 レイノルズはアルマを別荘に招待する。そこでレイノルズは、子供の頃、初めて母親のためにドレスを縫ったことをアルマに話す。彼の生い立ちを聞きながら、彼女は偉大な芸術家のミューズになる夢を見たに違いない。田舎のレストランで働いていたアルマにとって、レイノルズは自分をつまらない日常から救い出してくれる王子様。親密な時間を過ごして2人の心が通い合うように思えた時、レイノルズがとった行動は甘いキスではなく、アルマの身体を採寸すること。いつの間にかシリルが現れて、レノルズが採寸したサイズを書き留めていく。そして、2人の奇妙な試験をパスしたアルマは、晴れてレイノルズの新しい恋人として“ハウス・オブ・ウッドコック”に迎えられ、姉弟と一緒に暮らすことになる。そこで、毎日、着せ替え人形のように次々と美しいドレスを着るアルマ。夢のような生活だが、次第にレイノルズとの関係に不協和音が生まれていく。

 毎日、仕事漬けのレイノルズはアルマが話かけてもイライラしているし、食事はいつもシリルを含めた3人。アルマはサプライズでレイノルズと2人だけの食事を計画するが、予定外のサプライズを嫌うレイノルズは怒り出して大げんかに。レイノルズと付き合うにはマネキンに徹するしかない。これまでのレイノルズの恋人たちは、そんな屈辱に耐えられず“ハウス・オブ・ウッドコック”を出て行ったがアルマは違った。彼女はレイノルズの愛を、そして、芸術家の妻という夢の生活を手に入れるために闘うことを決意する。そして物語には、ゴシック・ロマンスのような不気味さが漂い始める。

 ポール・トーマス・アンダーソンが男女の恋愛を描くのは『パンチドランク・ラブ』(02)以来だが、女性を主人公にしたのは初めてのこと。アンダーソン初のヒロインは、そうやうやすと男の言いなりにはならない。アルマがレイノルズに求めているものは当然のごとく愛情であり、レイノルズの恋人としてリスペクトされること。アルマは客としてやって来たベルギーの王女に「私はここに住んでいるのよ」と挑戦するように語りかける。一方、レイノルズがアルマに求めているのは彼女が優秀なマネキンであること。彼が興味があるのはアルマというひとりの女性ではなく、自分が作ったドレスを着ているアルマなのだ。映画のなかで唯一、レイノルズが欲望に満ちた眼差しでアルマを見つめるのは、ファッション・ショーでアルマが登場した瞬間。ドア穴から食い入るようにアルマを見つめるレイノルズの眼差しは、どこか狂気じみている。

 仕事の殻にこもり、人を愛することができないレイノルズを振り向かせようと、アルマはレイノルズの心にどんどん攻め込んでいく。それを振り払おうとするレイノルズ。愛をめぐる激しい攻防戦がヒートアップするなか、アルマはとんでもない作戦でレイノルズを攻撃。弱ったレイノルズを献身的に看病し、レイノルズが愛してやまない母親の役割を担うことで、自分を頼るようにすることに成功する。最初は人でなしの天才に愛を踏みにじられた被害者だったアルマも、このあたりまでくるとレイノルズに負けないくらい狂気じみている。そして、アルマに依存するようになったことを恐れたレイノルズが再び反抗すると、アルマは最終手段を使ってレイノルズを完全に自分のものにしようとする。そんな2人のいびつな愛憎劇がピークに達するクライマックスの食事のシーンは圧巻で、ダニエル・デイ=ルイスとヴィッキー・クリープスの鬼気迫る演技に手に汗握る。そこでアルマは「あなたには無力でいてほしい」と呟くが、それはレイノルズがアルマにマネキンのままでいて欲しいと願っていたことと変わらない。2人にとって、愛とは一体何だったのか。

 ダニエル・デイ=ルイスは本作が引退作になると公言しているが、自己中心的で繊細なレイノルズを見事な演技で格調高く演じている。その一方で、ヴィッキー・クリープスは、アルマのなかで女の情念が覚醒していく姿を生々しく演じて、女性のしたたかさを見せつける。本作は仕事に取り憑かれた男と愛に取り憑かれた女の闘いであり、さらには上流階級の世界に迷い込んだ下層階級の女性の階級闘争のような側面もある。また、結婚もせずにレイノルズの面倒を見ているシリル(レスリー・マンヴィルの正確で気品に満ちた演技も絶品)のことも忘れてはならない。強く悲しい絆で結ばれた姉と弟。病に倒れたレイノルズは母親の幻を見るが、家族というテーマも本作には織り込まれている。そうした様々なドラマを内包したエモーショナルな物語を、アンダーソンは洗練された色彩と豪華な衣装で官能的に描き出した。そこでは、イギリスのロック・バンド、レディオヘッドのメンバー、ジョニー・グリーンウッドが手掛けたサウンドトラックも重要な役割を果たしている。グリーンウッドは3作続けてアンダーソンの音楽を手掛けているが、今回はいつもの不協和音や不穏な旋律は控えめに、叙情的で色彩豊かなオーケストラ・サウンドで物語を幻想的なムードで包み込んでいる。

 「ファッション・デザイナーと映画監督には多くの共通点がある」とアンダーソンはコメントしているが、『ファントム・スレッド』はハリウッドの鬼才が鮮やかに織り上げたオートクチュールのような逸品だ。グロテスクでエレガント。恐ろしくて甘美。観る者の感情に爪痕を残すべく巧みにデザインされた物語に、アンダーソンの唯一無二の才能が光っている。

(村尾泰郎)

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