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いま、最高の一本に出会える

監督の作家性を維持しながらリッチな作品に “笑えない悲劇”『女王陛下のお気に入り』の実験性

リアルサウンド

19/2/18(月) 13:00

 オリヴィア・コールマン、エマ・ストーン、レイチェル・ワイズ。3人のキャストが揃ってアカデミー賞の主演、助演女優賞にノミネートされるという快挙を成し遂げた本作『女王陛下のお気に入り』は、火花散らす女優たちの演技が楽しめる作品だ。さらにレイチェル・ワイズの颯爽としたブーツ姿などに代表される衣装の見事さも、特徴的な撮影も、絢爛な美術も、あらゆる部分が質の高さと実験性を兼ね備えていて、作品賞を含むアカデミー賞最多ノミネートも頷ける作品だ。

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 その尖ったセンスと冷徹な視線によって「鬼才」と呼ばれるヨルゴス・ランティモス監督にとっても、本作は勝負作だったと考えられるが、ここでもその皮肉で乾いたユーモアを持った作家性をそのまま維持し、本作を切れ味鋭いまま、見事にリッチな作品に仕上げることに成功している。

 ここでは、そんな『女王陛下のお気に入り』の凄さがどこにあるのか、また何を描こうとしたのかを、できる限り深く解説していきたい。

 主人公は、18世紀初頭のイングランドを治めていた、ステュアート朝・最後の君主、アン女王(オリヴィア・コールマン)だ。当時イングランドは宿敵ルイ14世の統治するフランスと交戦中。女王の側近を務めるマールバラ公の妻サラ(レイチェル・ワイズ)は、女王の幼なじみである立場をも利用しながら、フランスとの戦いで指揮を執る夫の意向通りに戦争を推し進めようと女王に進言していた。そこに女官として宮廷に雇われる、サラの従姉妹アビゲイル(エマ・ストーン)が登場。休戦を主張する貴族とつながりを持ったアビゲイルは、次第に女王の寵愛を得て、サラと敵対する存在になっていく。

 このあらすじは、大きな流れとしては史実に沿っているといえるが、本作はただ歴史を教科書通りに描いていく映画ではない。本作の基になったのは、若い頃から王室に興味があったイギリスの女性、デボラ・デイヴィスが20年前に発表した脚本だった。その物語は、アン、サラ、アビゲイルたちの関係性を中心に、歴史の裏で本当のところは何があったのかを、想像をはたらかせながら「下衆の勘繰り」で解釈していくのだ。

 本作の描写で驚かされるのは、アン女王の宮廷での暴虐な振る舞いと、不安定な精神状態だ。流産や不慮の病気などで子どもの死を何度も経験してきた彼女は、その代わりだという17羽のうさぎを宮中で遊ばせながら、突然わめき出したり、窓から外へ飛び降りるような素振りを見せる。そんな、到底イングランドを統べる人物とは思えない女王をなだめるのが、側近サラの役割だ。

 しかし、ここでさらに驚かされるのは、二人きりになったときのサラの態度である。まるで暴力的な夫にでもなったかのように、自らが仕えるはずの女王に対して居丈高に振る舞い、強引に言うことを聞かせるのである。宮中の者たちを冷然と扱うアン女王は、彼女にだけは大人しく弱々しい、うさぎのようになってしまう。

 その理由はすぐに分かることになる。召使いとして宮中に勤めだしたアビゲイルが、女王の寝室で目撃したように、サラは女王と肉体的な関係にあった。「閨房術」、すなわちベッドでの性的なテクニックによって、サラはアンを意のままに操っていたのだ。劇中でしっかりと描かれているわけではないが、サラと女王の普段のやりとりを見せることで、ふたりがベッドのなかで、どのような役割でいるのかが、かなりのところまで推測できてしまうように描かれている。

 そのことを知ったアビゲイルはチャンスをうかがって、女王のベッドのなかにすべりこみ、自分もまた彼女の心理をコントロールしようとする。まさに北風と太陽。サラはベッドで激しく強引に女王を支配し、アビゲイルはベッドで優しくおだてながら女王を操る。アン王女はどちらの魅力も捨てがたく、両極の感情と快感を味わいながら、反発し合う彼女たちを手元に置きつつ、自分を取り合ってサラとアビゲイルが火花を散らす姿を楽しんでもいた。

 本作は、死や戦争、性愛などがシリアスな雰囲気で暗示されるために気づきづらいが、このように権威を滑稽に風刺した過激なコメディー作品なのである。とはいえ、これが“真実ではない”という保証もない。ここで描かれる宮中での下品な乱痴気騒ぎが象徴するように、高貴で威信のある王室や貴族の人間性など、実際はこの程度のものであり、多くの人間がうやうやしく、または誇りと考えている歴史とは、ただ動物的なものでしかないという厳しい冷笑を浴びせかけている。

 それがただの乱痴気騒ぎや乱れた恋愛に終始するだけなら、さほど問題はないかもしれない。だが、大権を握る女王が、このような方法で側近たちに籠絡されているというのは、国民にとって悲劇であろう。ことに当時はフランスとの戦争中なのだ。国民の血が流れる重要な決断に、それぞれ政治的に反対の立場の後ろ盾を持つ、サラやアビゲイルの思惑が大きく影響しているのである。その意味で本作は、悲劇を装った喜劇であるばかりでなく、喜劇の果てに悲劇へと行き着く作品なのだ。

 このようなテーマを、本作では特殊な撮影が強調している。具体的には、広角レンズと魚眼レンズの使用である。映画では通常、このように特徴的な映像を見せてしまうと、カメラの存在をいやでも観客に意識させてしまい、物語への没入を阻害する原因となってしまう。しかも、本作の舞台となるのは映画カメラの存在しない時代なので、なおさら臨場感は希薄になってしまう。だから、このような選択を映画監督やカメラマンはとらないことが常識的である。

 しかし本作に限っては、この手法が効果をあげている。彼女たちの狂態をあくまで冷徹な目でとらえさせるためには、演出上、観客に感情移入させ過ぎてはならない。あくまで第三者としてシーンを眺めなければ、この異常性を真っ直ぐに認知し得ないのである。そして我々観客は、あくまで現代的な社会性を保ちながら、隠しカメラを使うように、客席から彼女たちをひっそりと観察する必要があるのである。

 同時に、この湾曲した視界がかたち作る、天井も床も同一フレームに収められた映像が、宮廷やその周辺だけが“世界”であるかのような、彼女たちの狭い社会観を表現することにもつながる。遠い地では、いまも国民が血を流しながら戦っている。だが、権力によって状況を打開できる女王は、自分の境遇を嘆きながら刹那的な快楽に身をゆだねているだけなのだ。

 そして、そんな女王だからこそサラと仲違いすることで、結果的に国民にとって良い方向に政治が転がるという結末が、むしろ皮肉として描かれるのだ。こんなことで意志決定される政治とは、一体何なのだろうか……。もはや脱力するほかない、苦い苦いハッピーエンドである。

 本作の物語は、もう少し続く。女王と決別し、珍しい南国の果物だけをもらって屋敷へと帰ったサラは、後悔のなかで女王への哀願の手紙をしたためていた。だがプライドが邪魔をして、手紙を書いては捨て、書いては捨て……。その姿は、あたかも本物の恋愛に悩んでいるかのようだ。しかし、サラがアンに固執するのも、彼女が女王として絶大な権力を握っているからに他ならない。彼女の苦悩を恋と呼ぶなら、それは権力に対しての恋なのではないだろうか。そして、彼女はみじめにも恋に破れたのだ。

 そんな、恋愛を装った権力闘争に勝利したアビゲイルは、うっとりと宮廷生活に身を浸す。しかし、その暮らしを維持するため、今日も今日とてアンの性欲を処理しなければならない。果たして、これは勝利と呼べるのだろうか。アビゲイルは、そのような境遇を嫌って宮中にやってきたのではなかったか。劇中に登場した売春宿で働く女性たちと、彼女の仕事は本質的にどこが違うのだろうか。

 そして、権力を行使して人々を従わせ、愛情や奉仕を強要しなければ、それを得られない女王は、なんとみじめなのだろうか。国家の中枢、権力の頂点に位置するのは、そんなみじめな人間たちなのである。

 だが本作は、このような古い政治体制を笑っているだけではないはずだ。世界的に経済格差が拡大する現在の社会の中では、権力の固定化が強まっている。実際に政治を動かすのは、往々にして庶民の生活とは縁のない上流の側の人々である。そんな生活を送っている人間の社会観は、えてして本作のそれと変わらないのではないのか。

 そして本作が真に笑っているのは、彼女たちを滑稽だとも、哀れだとも感じる我々が、自分たちの社会だけはまともな仕組みで運営されていると思いこんでいる、甘い認識なのかもしれない。その意味で本作は、やはり笑えない悲劇なのだ。(小野寺系)

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