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宮台真司の『万引き家族』評:「法の奴隷」「言葉の自動機械」となった人間達が社会を滅ぼすことへの激しい怒り

リアルサウンド

18/7/15(日) 10:00

■布団が艶めかしかった昭和と共に失われたもの

 布団の話から始めます。昭和には和風ラブホテル──「旅荘」──がありました。門をくぐると仲居(従業員)の女性が出迎えて、部屋へと案内してくれます。部屋番号ならぬ「楓」「椿」などと部屋名が付された扉が開けられると、卓袱台と畳だけが見えます。しばらくお待ち下さい、と中居が一旦引き下がります。

 茶と茶菓子を盆に載せた再び中居がやって来ると、「ごゆっくり」と一言残して立ち去ります。何かを仄めかしているように感じてゾクっとした二人は、対面しつつ茶菓子を口に運んでしばし雑談します。それでもお互いにこれから起こる事が分かっているから、どこかしらじらしくてギコチないのでした。

 そして、会話がふと途切れた時が「その時」です。相手の手に触れて見つめ合い、手を取り合って立ち上がります。襖(ふすま)を開けると、そこはいきなり非日常の時空。艶めかしい色の行灯に照らされて大きな布団が敷いてあります。そこからは異次元空間です。まるで布団がこれから起こることを待ち構えていたように感じられたものです。

 平成に入ると──1990年代になると──「旅荘」的ラブホは姿を消しました。普通のラブホでは残念なことに、初めからベッドが目に入ります。二人が対面して座するための「卓袱台と茶菓子」、という日常の擬態もありません。二人を誘惑するかのように佇む艶めかしく照らされた布団もありません。そう、「境界の両義性」が姿を消したのです。

 昭和34年に生まれた私は、中学3年まで団地暮らしでした。どのベランダにも布団が干してありました。中学生になった私にはそれが艶めかしく感じられたものです。当時はクーラーがなかったから夏の夜中には開け放たれた窓から「あの声」が聞こえたりもしました。干した布団はそれを思い出させるのです。そうした布団も「境界の両義性」でした。

 当時の団地はだいたい2DKです。だからどこの家にも寝室はありません。当然ベッドもありません。普通の部屋に布団が敷かれました。余所の家に行くと、「そこ」に敷かれる布団とその上で行われる営みを想像して、やはり艶めかしく感じました。思春期を迎えた中学生にとって、布団はどこにあっても只ならぬ気配を漂わせる何かだったのです。

 布団がそうだったので、布団が敷かれる畳や、敷かれた部屋を仕切る襖にさえ、艶めかしさを感じたものです。私(たち)にとってはそれが「昭和の時空」です。そこに両親と子供2~3人が共住しました。だから『万引き家族』の登場人物たち──万引き家族たち──が住む古い小宅を見ると、昭和を感じざるを得ません。それはどこかしら長閑でもある。

 実際、この映画は、「昭和と共に過ぎ去ったもの」と「平成が連れてきたもの」について語ろうとしていると言えます。それをこれから、1.法と法外、2.勧善懲悪の否定、3.都市的エロス、4.隠喩としての音楽、の4項目に即して紹介しようと思います。すると、私たちの平成社会のどこが「狂っている」のか自動的に分かる、という寸法です。

■法と法外──ontologyとrealismが必要な理由

映画には、万引きを生業とする疑似家族──万引き家族たち──が登場します。彼らは法の外つまり「法外」で生活しています。いろいろな理由で「法内」から弾かれた者たちばかりです。「祖母」の年金だけでは足りないので、彼らは連携して万引きをしています。「祖母」以外に「父」「母」「母の妹」「長男」がいますが、やがてそこに「長女」が加わります……。

 かつて是枝監督は似た映画を撮っています。『誰も知らない』(2004)です。親が死んだので戸籍登録されていない子供たちが「法外のシンクロ」を生きる……。『万引き家族』と同じく実話に触発された作品でした。そこでは、初めは楽園に見えた子供の領分が、やがて崩壊する様が残酷にも描かれます。そして、万引き家族たちもまた崩壊するのです。

 違う点も際立ちます。万引き家族たちの営みが楽園ではないということ。彼らは「法外のシンクロ」=「生存戦略と仲間意識」で繋がります。生存戦略あっての仲間意識。逆ではありません。だから逆境では「仲間=家族」を置いて逃げます。レオ・レオニ『スイミー』の読み聞かせが出てきます。小さな魚が集まって大きな魚のフリをする……。問題はその先です。

 一人じゃできないことも皆でやればできるが、皆といると足手纏いなら一人で逃げる──そう、定住以前の遊動民ないし先住民のように。だから「父」も逃げたのです。定住以前に法はありません。法は1万年前の定住革命で生まれます。定住を支える余剰収穫物の所有を保護するためです。法が持ち込まれることで[法内/法外]の区別が生まれました。

 定住以前は遊動民です。その作法を今に伝えるのが先住民。彼らは法の代わりに「生存戦略と仲間意識」を頼ります。他方、私たちは法を頼ります。法の内つまり「法内」は約束の世界。やがて「法を守りさえすれば生きられる」部分が大きくなります。すると私たちは「間接化」されて、「どうすれば生きられるか=realism」を考えずに生きられるようになります。

 先住民は所有を理解せず、定住民に差別されます。それを描くのがA・ケンネル監督『サーミの血』(2016)。でも「法の奴隷」と化した定住民は、「法外でシンクロ」する力を持つ先住民を祝祭時に「聖なる民」として召喚。失った(ケガレた=気枯れた)力(ケ=気)を回復します。先住民は「間接化」されない分、realismを具現します。主人公少女の身体性がそれです。

 さて、「法外」においては、「どうすれば生きられるか=realism」は「世界はそもそもどうなっているか=ontology」を踏まえねばなりません。さもなければ生きられないからです。ただし世界とはありとあらゆる全体です。だから部分である私たち人間に全体が姿を現すことはありません。そのことは「なぜ世界が存在するのか」と問えばすぐに分かることです。

 この問いに答えが存在するなら、答えは世界の部分ですから、「世界という全体」が「答えという部分」に対応することになります。これは背理です。世界が存在するなら理由を問えるはず。なのに理由を問えない。ということは、世界は(認識できないのではなく)存在しないのです。これは「新しい実在論」を提唱するマルクス・ガブリエルの有名な論法です。

 にもかかわらず私たちの振る舞いは「常に既に」ontologyを先取りします。なのに先取りされたontologyを私たちは示せません。規定不可能だからです。AIはどうか。人による初期入力を前提としたビッグデータからのディープラーニングという「疑似ontology」はありますが、それはいつも部分に留まる。つまり全体を先取りするontologyがないのです。

 だから非常時に奇跡の振る舞いを見せる「真実の瞬間 the moment of truth」もありません。クリント・イーストウッド監督『15時17分、パリ行き』(2018)の観光記録ビデオの如き趣きは、「英雄は自分が英雄であるのを知らない」という監督の信念に対応します。マシンガンに向けて突進した自分のontologyを、主人公は「後から」知るという訳です。

 ontologyは「存在論」と訳されて来ました。独語Sein(ある)が「存在」、Dasein(そこにある)が「現存在」と訳されてきたのと同じで、訳語を見ただけでは意味不明です。ontologyの正しい意味は「世界はそもそもどうなっているか」。その場合、「世界は」という全体性への指示と、「そもそも」という間接性の除去にポイントがあります。既に話した通りです。

■存在論的転回──社会学の沈下と人類学の隆盛

 「実在論」と訳されるrealismは「どうすれば生きられるか(という観点からする構え)」という意味です。社会学者ソルニット『災害ユートピア』(2009)が示したように、システムによって間接化された私たちは、システムの呼出ボタンを押せば生きられますが、災害でシステムが動かなくなるとrealismが分からず、「生存戦略と仲間意識」を欠くので死にます。

 群馬大学の片田敏孝氏が津波の多い三陸地方に伝わる『津波てんでんこ』を震災前から唱導しておられました。津波が来たら仲間を置いて『てんでんばらばら』に逃げろ、助けようとして戻ると共倒れになるぞ、と。これがontologyを踏まえたrealismというものです。ことほどさようにrealismはontologyを前提(必要条件)としていることが分かります。

 他方、「死を覚悟して家族を助けに行け」というのは、ontologyを踏まえたrealismではありません。別の言い方をすれば、ontologyを敢えて無視したanti-realismがあり得るのです。「不可能だと知りながら」前に進む営み。これはrealismではなくesthetism(美学)です。敢えてするロマン(架空ビジョン)を追求するロマン主義。それはそれでいいでしょう。

 realismが前提とするontologyは、約束事ではありません。まして主観でもありません。蛙には蛙の、鯨には鯨の、人には人のontologyがありますが、そこに優劣はありません(多自然主義multi-naturalism)。ontologyを無視した営みは、人や社会を生存できなくします。人の生き方も社会の制度も「どうとでもあり得る」訳がなく、realismが必要です。

 なのに(ソルニットを例外として)社会学者は、社会は約束事だから様々な文化があるのだと言い立ててきました。リベラルな議論が特にそう。「構築主義」と呼ばれます。「社会はどうとでもあり得るのに…」という訳です。でも、どうとでもあり得るはずがありません。ontologyを無視した制度に依拠する社会は滅びるのです。現に滅びようとしています。

 最近の哲学(カンタン・メイヤスーら)は、構築主義的発想を「相関主義」と呼び、批判します。最近の人類学(ヴィヴェイロス・デ・カストロら)も、構築主義的発想を「非本質主義」と呼び、批判します。この動きを「存在論的転回」と呼びます。ontologyを回復し、システムによる間接化で呆けたrealismを叩き直せ!──そうした共通の規範的志向があります。

 文明的な社会は滅びに瀕しています。民主政は、気分が晴れりゃ何でもいいという類の「中身に意味のない表出 explosion」を、あたかも中身に意味がありそうな「尤もらしい表現 expression」へと変換する装置に過ぎません。ontology&realismから私たちを遠く隔てる機能を果たしているのです。映画批評集『正義から享楽へ』(2016)で示した通りです。

■家族と非家族の差異に拘泥する「言葉の自動機械」

 『万引き家族』は[法外=直接性/法内=間接性]の図式を用いて、そこに[本物/偽物]という図式を重ねます。realismから見て「法外=直接性」は本物、「法内=間接性」は偽物。システムによって間接化された「法内」の存在は、ontologyが摩滅した偽物です。映画では「法の奴隷」と「言葉の自動機械」という偽物が溢れるこの社会への怒りが示されます。

 そこも『誰も知らない』とは逆向きである事実に気づかねばなりません。『誰も知らない』では「法外=子供の領分」がunrealだから滅びるのですが、『万引き家族』でunrealなのはむしろ「法内」なのです。それを強烈に感じさせるのが、男女2人の若い警官から「母親」に対する説諭──子供の将来はどうなるの? 子供のことを考えたの?──の場面でした。

 警官役の池脇千鶴と高良健吾が真剣な演技を見せますが、真剣であるほど嘘臭く見えるように周到に演出されています。これは、「言葉の自動機械」つまりクズであるパヨク(左翼の蔑称)への、痛烈な批判に当たります。それなのに、本作をパヨク擁護の作品だと批判するウヨブタがうようよと湧いています。パヨク以上に「言葉の自動機械」つまりクズです。

 と言いたいところですが、本作に正確に即するなら、パヨクとウヨブタが「法の奴隷」「言葉の自動機械」として等価に批判されています。私の言い方では、「左か右かじゃなく、マトモ(本物)かクズか」となります。こうした本作の「法の奴隷」批判&「言葉の自動機械」批判──クズ批判──のスタンスは、今日の社会が抱える問題を的確に射当てているでしょう。

 なぜなら、グローバル化による「中間層の分解」とインターネット化による「見たいものだけを見る営み」がもたらした、共同体の崩壊つまり「仲間」の空洞化によって、損得勘定を超えた内発性(良心)が枯渇しているからです。思えば、左翼か右翼か、宗教か世俗かを問わず、不安を背景とした神経症的「法の奴隷」「言葉の自動機械」が社会を覆い尽くしています。

 それを前提に、政治集団・官僚集団・宗教集団の別なく、「座席を失うのではないか」という不安をベースにした神経症的な「損得による忖度」が蔓延します。モリカケ官僚もオウム教団幹部も日大アメフト部員も同じこと。「内容に意味がありそう」に見えて実際は「不安の穴埋めに役立てば何でもいい」というだけの、「似非コミュニケーション」が溢れています。

 その意味で、「似非コミュニケーション」の蔓延は、パヨクとウヨブタだけではありません。そうしたunrealismの典型が、[家族/非家族]を明確に分ける私たちの作法だと言えます。先日の目黒で起きた親による子供の虐待死事件で、隣人たちが子供を助けてあげられなかった理由も、この「当たり前の作法」──クズどもの作法──だったのです。

 これに比べると、万引き家族たちは家族と非家族をなだらかにつなぎます。明瞭な境目はありません。血縁がなくてもいいのです。困っていたら家族に加えて助け合います。映画は、[家族/非家族]を截然と分ける私たちの「当たり前の作法」が、生き残りに役立たない「言葉の自動機械」のワザ、「法の奴隷」のワザだと、私たちに突きつけているのです。

■勧善懲悪の否定──初期ウルトラシリーズの香り

 ところで、是枝作品の多くは、私が小学生時代に見た、円谷プロとTBS(東京放送)が共同制作していた1960年代後半の初期ウルトラシリーズ──『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』──を彷彿させます。だから彼の作品を見るたびに、エンドロール後にTBSの旧ロゴを幻視してしまうほどです。例えば『空気人形』(2010)。

 そこには、「怪獣にも心がある」ならぬ、「ダッチワイフにも心がある」が描かれています。「法内=システム」に乗れない存在(ダッチワイフ)の視座を経由して社会を反省させる、という形式も完全に同じです。私がDVDボックス(下巻)に長い解説を寄せた『怪奇大作戦』を思い出します。そこで犯罪に走るのは、戦後社会に乗れない戦前戦中世代でした。

 彼の映画には「悪は悪、善は善」というトートロジー(同語反復)がありません。悪には理由がある、生まれた時から悪い奴などいない、とします。これは、一つの社会観であると同時に、一つの表現技術上の手段でもあります。悪の理由を描くことで、様々な問題とそれを扱う多様な価値観を提示できるからです。そこを詳しく見てみます。

 是枝作品は[善/悪]に代えて[本物/偽物]のコードを持ち込みます。具体的に言えば、「法外」へと疎外された存在──怪獣であれ人形であれ人であれ──の視座を経由することで、「法内」が一つの虚構すなわち「偽物」であることが暴露されるのです。その場合、それが「偽物」だと気づく存在──『怪奇大作戦』の岸田森──こそが「本物」になります。

 『ウルトラマン』で言えば、ガバドンにせよ、ジャミラにせよ、スカイドンにせよ、元々は少しも悪くありません。単に彼らの存在を許容できない人間たちがいるだけです。その人間たちが、悔しいことに、自分たちを善だと見做す「偽物」なのです。なぜ私たちが「偽物」なのかを描くことで、数多の問題と価値を弁えた「本物」が指し示されるのです。

 こうした図式が映画『万引き家族』をも貫徹します。例えば、「私は法を守っています」と浅ましく弁解する安倍首相は「法内」にいる「偽物」を象徴します。「法内」に救いがない者たちを緩やかに包摂できる「法外」の万引き家族たちこそ「本物」であり、それを理解する観客たちが「本物」です。ちなみに社会学者ウェーバーが百年前に似た図式を使っています。

 ウェーバーは、見ず知らず者から成る国民を守るべくイザという時に法を破る覚悟──失敗して市民に血祭りに挙げられる覚悟を含め──が「政治倫理」であり、その「政治倫理」に従う政治家こそが「本物」だとします。脱法の奨励ではなく、「正しさのために法外に出る」政治家を賞揚し、「法内でコソコソ正しくないことをする」政治家を軽蔑するものです。

■都市的エロス──疎外された者をエロスが訪れる

 とはいえ、是枝作品は「法内=システム」を頭から否定しません。再び『空気人形』の冒頭。夜のモノレールの車窓から眺めた走行中の車列からカメラをパン(横移動)して主人公を捉えるシーンを思い出しましょう。そこには「都市的エロス」が活写されています。私は『ウルトラセブン』の「アンドロイド零指令」などを思い出さない訳にはいきません。

 詳しく言えば、「法内」──都市や郊外──から疎外された者の眼差しにこそ、その都市や郊外が「ありそうもない不思議な何か」として立ち現れ、それが「都市的エロス」を醸し出します。そこにシンクロできない存在を疎外する、それ自体が奇跡であることによって魅惑的な「法内=システム」の、両義性。それを描き出すのが是枝作品のもう一つの魅力です。

 『万引き家族』ならば「祖母」の病死直前の海水浴場です。波と戯れる幸せそうな万引き家族たちを笑みを浮かべながら眺める「祖母」の表情には「死亡フラグ」が立っている──樹木希林の演技は奇蹟です。「ありそうもない不思議な何か」からエロスを享受した彼女は、「あんた、よく見ると美人だね」と「母親」に語り、ほどなく亡くなります。

 万引き現場のスーパーマーケットを挙げてもよい。ジャン・ボードリヤールならばキャノピー(伽藍の天蓋)と形容するだろう陳列棚に置かれた商品の数々は、「父親」が「売られる前には誰のものでもない」と語るように、「ありそうもない不思議な何か」として立ち現れています……そう、これもエロスなのです(後で説明します)。

 思えば、幼少の私は、発達が遅くて体が小さく、右掌に大火傷を負い、小児喘息で、周囲の冗談が理解できず、転校だらけで六つの小学校に通ったのもあって「周辺的存在」でした。そんな私が幼稚園の頃に作ったスクラップブックがあります。母が購読していた婦人雑誌(『ミセス』など)からネオン輝く都会やショーウィンドウの写真を集めたものでした。

 「法外」へと疎外された私から見ると、写真の中で見る夜の都会やマネキン人形が、何というか、全体として一つの生き物だと感じられたのでした。それを今でもまざまざと思い出すことができます。だからでしょうか、小学校にあがるとアンデルセン童話と宮沢賢治に深く耽溺することになったのでした。

 錫(すず)の兵隊やマッチ売りの少女が、人々が幸せそうに行き交う街や窓から見える団欒を、自分がそこに包摂されていることを想像しながら眺めて、いっときの享楽に耽ります。その感覚が、まるで自分のもののように感じられて、私もひとときウットリと至福の時間を過ごしたものでした。

 アンデルセンの後に宮沢賢治に触れましたが、例えば遺作である『銀河鉄道の夜』を読むと、自然への礼賛もさることながら、鉄道の窓灯・信号機の灯・ショーウィンドウの品々・からす瓜の燈籠などへの、主人公の憧憬が描かれていて、私はアンデルセンと同じものを感じて深く癒されたのでした。

 だから、小学三年生のときに『ウルトラセブン』の「アンドロイド零指令」を見た時も、同じ感覚を抱いたのです。是枝作品には、『空気人形』からも『万引き家族』からも、同じ体験を享受することができます。何の変哲もない都市や郊外を、錫の兵隊やマッチ売りの少女やジョバンニのように眺める眼差しを、受け取ることができるのです。

 私たちをontologyとrealismから遠ざける、究極の間接化を行うシステムでさえも、そこから疎外された周辺的存在の視座からすると、ありそうもない奇蹟的な過剰、あるいは過剰な贈与として見えてくるということ。その意味で、「真のエロス」は周辺的存在の視座にしか立ち現れない──それが是枝監督の確信なのだろうと私は見ています。

 その構えに心から共振できる私は、昔から「都市や郊外は──システム──は法を通じて人間を疎外する、以上」という類の単純な言葉に、大きな違和感を感じてきたのでした。だからこそ、私は都市のフィールドワーカーになって女子高生の援助交際を「発見」したのだと思います。今から振り返ると、全てがひとつながりになって感じられます。

■隠喩としての音楽──細野晴臣の劇伴にみる天才

 最後に、音楽自体が映画全体の隠喩をなす細野晴臣氏の劇伴について触れます。テーマ曲とも言えるのが、エンドロールを含めて随所に流れる「Living Sketch」でしょう。アナログ楽器が離散的な平均律を奏でる一方、デジタルピアノのアルペジオがグリサンド(連続変化)します。アナログ楽器にはアルペジオのグリサンドは構造的に無理です。

 離散的な音程のアナログピアノと、連続的に音程が変わるデジタルピアノが、共演するパートさえあります。通常ならプログラミングで打ち込み音を定義する無限に再現可能なデジタル音が、「システム」を隠喩して、人が演奏するがゆえに再現可能性が厳密には存在しないアナログ音が、「システム外」を隠喩するはずのところです。

 ところが、この映画の劇伴では、「システム的=法内」であるはずのデジタル音が、連続的な音程変化を通じてエロスを──人間的な曖昧さを──醸し出し、「システム外的=法外」であるはずのアナログ音が、リズムギターのように単調な刻みを入れるのです。これは明確に、先ほど申し上げたものとは異なる隠喩を意図したものでしょう。

 私たちの社会では、不安を背景に神経症的な「法の奴隷」「言葉の自動機械」へと人間が堕落することで、AIによって簡単に置き換え可能な存在へと劣化しつつあります。数学者の新井紀子氏が言うように、人間が、パヨクやウヨブタのようにontologyと無関連な自動機械になり下がるのであれば、AIは簡単に人間を超え、人間を置き換えてしまいます。

 他方、AIを部品として含んだシステムは既に、私たちに充分なエロス的な体験を享受させるところまで進化しました。エロス的な体験を求める時に誰を・何を相手にすればいいのかという点について言えば、スパイク・ジョーンズ監督『her/世界でひとつの彼女』(2013)が描くように、今の段階で既にAIやゲームマシンの方がマシかもしれません。

 エンドロールに流れる音楽を聴きながら私は、万引き家族たちのように「法外」でシンクロする能力を、既に失ったがゆえに「劣化した人間」が、デジタルなアルペジオのグリサンドによって隠喩されるシステム≒AIに、急速に置き換えられていくイメージを受け取りました。ただ、こうした劇伴の仕掛けを考えるのがまだ人間であることが私たちの救いです。

 冒頭「昭和と共に過ぎ去ったもの」に触れました。ソレを一言でいえば、万引き家族たちのように「法外」でシンクロする能力だと言えます。「法内に露出した法外」という両義性が布団です。ソレを失って「法の奴隷」「言葉の自動機械」へと劣化してAI以下になった人間たちが社会を滅ぼそうとしています。『万引き家族』はその事実への怒りを突きつけます。(宮台真司)

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