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『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』が浮き彫りにした、“続編映画”の在り方

リアルサウンド

18/11/26(月) 12:00

 アメリカ政府とメキシコの麻薬カルテルの凄惨な戦いを描いた、エミリー・ブラント主演、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ボーダーライン』は、両国にまたがる酷薄さに満ちた救いのない世界を徹底的に表現することによって、深刻な社会的テーマと娯楽性の両方を獲得した傑作だった。

参考:なぜ彼らは残虐行為ができるのか? メキシコ犯罪組織との戦い描く『ボーダーライン』が問うもの

 敵対する人間を肉塊にして往来に吊り下げたり、兵士と同等といえる戦闘用の装備で敵を急襲するなど、凶悪化し武装化を続けていくメキシコ麻薬カルテルの残虐さや恐ろしさを『ボーダーライン』は描き出し、さらにそれすら凌駕するアメリカ政府の悪辣さをも同時に描く。そこでは、戦いのなかでほとんど「戦地」となってしまったメキシコの危険地帯に生まれる子どもたちの悲劇までもが映し出されていた。

 『メッセージ』(2016年)、『ブレードランナー 2049』(2017年)と、その後もさらなるメジャー作品を撮り活躍を続けているドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、撮影の名手として知られるロジャー・ディーキンス、最近惜しくもこの世を去った、数々の音楽ジャンルを横断しながら未知の領域を開拓していた音楽家ヨハン・ヨハンソン、監督作を撮りさらに注目を浴びている脚本家テイラー・シェリダンらによって、未知の世界の不穏さや不気味さ、古代ローマと麻薬カルテルが支配するメキシコの都市とのつながりという歴史的な見方や南部ゴシック風の文学性を獲得することで、ここでのメキシコ麻薬戦争は暴力的イメージをそのままに、意外なほど知的な広がりを持った作品となったのだ。

 その続編となる『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』では、そんな前作を代表する四つの才能から、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ロジャー・ディーキンスらが『ブレードランナー 2049』制作のため、企画から外れてしまっている。この状況下で、第2作はどのような仕上がりになったのだろうか。ここでは、本作『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』の試みを検証し、第1作と比較することで評価していきたい。

 前作で脚本家テイラー・シェリダンは、画期的な仕掛けを施していた。アメリカ政府とメキシコ麻薬組織の両陣営が倫理を完全に失って激化していく争いのなかで、唯一の良心といえる、エミリー・ブラント演じるFBI捜査官の主人公ケイトがメインストーリーから途中で脱落し、ベニチオ・デル・トロが演じる、麻薬組織に家族を殺された男アレハンドロが「主役」を引き継いでしまうのだ。この奇妙な展開は観客を驚かせたこと以外に、麻薬戦争にはすでにヒューマニズムが通用しないこと、アメリカが良心を失ってしまったことを象徴的に、かつアイロニカルに表していたといえる。

 続編『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』は、そのまま復讐に燃えるアレハンドロを主人公として物語が進んでいく。それは最初から良心の呵責に囚われず、倫理を度外視した内容が展開することを示している。本作の冒頭に現れるテロリストたちの自爆攻撃は、周辺にいた人々を老若男女問わずに殺傷し、懇願する母親や子どもを容赦なく吹き飛ばす。それを受け、CIA(アメリカ情報機関)は、取り調べのため容疑者におそろしい尋問を行う。「水責めはもう古い」とばかりに、容疑者自宅を上空から映したライブ映像を見せ、そこを爆撃し家族を殺すと脅すのである。国家の安全のためとはいえ、それはすでに悪魔の所業にすら達している。

 それだけではない。アメリカ合衆国国防長官は、麻薬カルテルがテロリストを密入国させているという不確定な容疑を基に、カルテル支配者の末娘(16歳)を誘拐する作戦にゴーサインを出す。このように大国が怪物化していく描写は、フィクションではあるものの、いままでに報道されているCIAによる拷問の残虐さや、荒唐無稽にすら思える過去の特殊作戦の内容を知ると、あり得ないことではないと思わせる。そしてこの過激な描写は、不法入国した親子を引き離し拘束するという、2018年6月まで行われていたトランプ政権の政策を暗示しているようにも見える。現実のアメリカの姿に引っ張られるかたちで、映画の内容もさらに深刻化しているのだ。

 だが、ここから意外にも、喪失したはずのヒューマニズムが立ち上ってくる。復讐心をいいように利用されてきたアレハンドロは、この悪魔的な作戦の犠牲になりつつある、憎いはずの麻薬組織支配者の娘を助けようとし始める。集団の狂気が個人の狂気を上回ったことで、ついにアレハンドロすら非人道的行為に追従することができなくなったのだ。常軌を逸したナチス政権が、ただ追従し命令を遂行するだけの真面目な兵士たちを大量殺戮者にしてしまったように、歪んでいく世界のなかで人間が人間であるためには、その狂気から逃れなければならない。本作が唯一の希望として描くのは、それが集団のなかで異端だと言われようと、リスクを抱えようとも、自分の良心に従おうとする勇気である。

 前作で挫折を味わったケイトの優しさや自制心というものは、じつはここに来て、より緊迫した状況のなかで再び価値を持って浮かび上がってくる。ケイトはアレハンドロに銃を向けるも、どうしても引き金を引くことができなかった。その弱さが、本作でアレハンドロが少女を助けようとする未来へとつながっている。そして今度はその希望がメキシコ側から生まれているのである。その意味で本作の脚本は、前作のテーマをも変化させてしまったように感じられる。

 この救いのない戦いに、一つの倫理的な解答を見出した本作には意義があるだろう。だが一方で、解答の提示は観客を安心させてしまうのも確かだ。良心の敗北というテーマや、地上を異世界のようにとらえた不気味な俯瞰撮影、そして出口のないやりきれなさを描き出した前作は、観客を息苦しい不安で圧迫し、ねじ伏せていた。その圧倒的な存在感に比べると、本作は比較的理解しやすく納得できるぶん、良い意味での異物感が取り去られてしまったように感じられる。

 その意味で、『ボーダーライン』の題材的な面白さというのは、1作目でかなりの部分が使い果たされてしまっているように思える。だから同じ題材で意義ある方向に持っていくためには、一度投げ捨てたヒューマニズムに回帰する道しか残されていなかったのではないだろうか。印象的な俯瞰撮影や、ぞくぞくするような不穏な音楽は、確かに今回も同様に存在するが、それらはあくまで1作目のテーマやコンセプトのなかで使用されていたものであり、本作では十分にポテンシャルが活かされていたようには思えなかった。

 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、『ブレードランナー 2049』において、方向性の違いによってヨハン・ヨハンソンを途中降板させている。それが成功か失敗かはともかくとして、映画監督は作品のために、ときにそのような決断を必要とする場合がある。本作は、『暗黒街』(2015年)などイタリアでは名を馳せているステファノ・ソッリマ監督のハリウッド進出作である。もちろんヴィルヌーヴ監督ほどの権限を与えられているはずもない彼が、ここで同じような振る舞いができたかというと難しいだろう。

 素晴らしくエポックな第1作の後で、その魅力を引き継いだかたちで新しいテーマを押し出した続編を作る。本作は、限られた条件のなかでそれら最低限必要なことが達成できているといえよう。だが、第1作をあそこまで前衛的に仕上げることができたのだから、続編となる本作も、映画づくりのスタイルやテーマを、同様にもっと根本から創出できなかったのかと考えてしまうのは贅沢だろうか。続編映画がオリジナルと肩を並べたり、その魅力を超えることは稀だ。本作が最も浮き彫りにしたと思えるのは、映画界全体の課題である続編映画の在り方であり、根源的な作品づくりの必要性への理解である。(小野寺系)

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