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ぴあ

いま、最高の一本に出会える

菊地成孔の『アリー/ スター誕生』評:完璧さのインフレーション

リアルサウンド

19/1/2(水) 12:00

■本気か?

 この、「まあそりゃあ、アカデミー賞は獲るよね。でも意外と主題歌賞だけだったりするのかも。とはいえ、品格としては複数ノミニー前提ぐらいのステージにある、ということだけは間違いない」本作に対して、世評が何と言っているか? 勿論ここでいう「世評」とはSNSのことではない。

 先ず

「究極的にエモーショナル!出会ったことがない愛の物語」

 としているVariety誌は論外である。「出会ったことがない愛の物語」? 本作は3度目のリメイクであり、制作年代に合せて、抜本的な意匠の変換を行った前作(76年版。以下「バーブラ版」。バーブラはストライサンド)にほぼ準じており、「物語」という単語を「ストーリー」と逆翻訳する限りに於いて、言わんや、「あらすじ」に於いてをや、37年の映画オリジナル版から一貫して変更はなく、「出会ったことがない」どころではない。むしろ「誰でも知っている、お馴染みの物語」ーー例えば『ロミオとジュリエット』とか『オペラ座の怪人』だとか『忠臣蔵』のようにーーとして定番化している。

 冒頭だが書いてしまったって良い<ショービズ界ですでに成功している男性が、まだ世に出ていない、天才的な女性に恋し、フックアップする。最初は幸せだったが、やがて女性が男性の手を離れるほどに成功するにつれ、男性のポテンツは折れ、破滅に向かう。女性は男性を愛すれど、どうすることもできない>これが基本的なストーリーラインである。当然本作の脚本も、これを骨子にして揺るぎない。

 とまあ、これはVariety誌のちょっとしたスリップに粘着する形で、本作のあらすじと概要を説明したにすぎないが、筆者がガチで「本気か?」と思うのは

「レディー・ガガの演技にノックアウトさせられる」

 としたTIME誌や

「天才女優・ガガが誕生した」

 としたTIME OUT誌、ならびに、本作のオフィシャルサイト内の「著名人コメント」の、筆者を除く全員(マジで・笑)のコメント総てである。

 もう一度聞くが、本気か? だとしたら例えば、特に名を伏せるが「初めてレディーガガの本当の姿を見た気がする」的なコメントをしたコメンテーターは、(以下、傍点よろしく→)きっと本当に、レディー・ガガの姿を、まともに観たことが今までなかった(←ここまで)のだろう(因みに筆者のコメントは「クーパー!!ガチびっくりしたよ!!すげえじゃん!!(ガガは想定内)」)。堂々たる本作の、唯一の構造的弱点は「レディー・ガガの人生や実際のライブの方が、この映画のアリーのそれよりもずっとすげえ」という点だからである。

■努力家や完璧主義者による、圧倒や感動のインフレを誰が責められようか? 責められない事の地獄がここにある

 デヴューしてから一貫して、絶対に手を抜かない完璧主義者ガガの価値が今や、完全なインフレ状態にある事、その事が本作を、大感動という名の拘束衣のような、逆説的な装置として締め付け、<感動マックスにして上限ががっちり押さえつけられている>という、奇妙な後味にしてしまっている事を、ガガの責任として石もてうつ事は勿論できない。ガガの努力と実現力は、時に人の命や、命がけのメッセージを封殺してしまうほどのものだ。

 例えば筆者は、直接手を下していないだけで、エイミー・ワインハウスを殺したのはレディー・ガガだと思っている。勿論、ワインハウスの命を奪ったのは、直接的には短躯で細いのにドラッグを大量に摂取したからとか、父親の愛がいびつで、特に成功による苦悩が、彼女を追い詰めた事にあるのは言うまでもない。

 しかし、ここにトニー・ベネットという補助線を引くだけで、太陽であるガガに対し、否応無しに月の役割に回されるという、ロールプレイ上のマウンティングのような、強い力が発生している事が明確になる。

 嘘だと思ったら、あらゆる検索をかけ、トニー・ベネットがデュエット相手をガガで行なっている録音風景と、ワインハウスで行なっているそれ(このシーンは、ワインハウスの伝記ドキュメンタリー、『『AMY エイミー』』に含まれてもいる)を比べてみると良い。先ずは両者の相貌が姉妹のように似ている事に驚かれるであろうが、ガガの陽性の生命力に対し、ワインハウスの自滅に向かうしかない、無邪気なダークさ、その黒い輝きは、ジャズマニアと言わず、音楽マニアと言わず、音楽リテラシーが限りなく低い者、予備知識が全くない者にさえ歴然とするであろう。筆者は、この二つの動画を見比べるにつけ「これはガガは(あるいはワインハウスは)見比べているのだろうか?」という、誘惑的な夢想に囚われられずにはいられない。

 また一方、3年前のアカデミー賞授賞式に於いて、『グローリー』の主題歌をコモンとジョン・レジェンドが歌い、二人とも「公民権運動から50年経ったけど、今のがよっぽど酷い」「SNSによって、デモ行進できない黒人が増えている」「監視カメラは、50年で10倍になった」等々、スピーチでマジギレしており、え? これオスカー? BET(ブラック・エンターテインメント・TV)アワード? という雰囲気にさせた瞬間、「さあさあお次は<サウンド・オブ・ミュージック・トリビュート」>ですよ~」と、移動舞台に乗った、ジュリー・アンドリュースの格好したガガが、ざーっと横入りみたいに、小鳥や森の気と一緒に入って来て、「サウンド・オブ・ミュージック・メドレー」を、もう嫌になるほど完璧にこなし、「さっきニガーが騒いでたのなんだっけ?」ぐらいに吹き飛ばしてしまった、あのパワー、あの不愉快感(笑)は忘れられない。ガガのことは結構好きなのに「ジョン・レジェンド! お前のピアノに隠してあるガンを抜け!!」と、モニターの前で絶叫してしまった、3つ若かったオレ。という有様なのである。

 他にもレディー・ガガは、徹底的としか言いようのない、<やりすぎてしまう>表現ジャンキーぶりによって、例えばJP・ゴルチェを、再生させる格好で潰しかけてしまったり、性的虐待にあった子供達を、主役にする格好で脇役に押しとどめてしまったりと、類例、枚挙にいとまがない。スタジオでレイプされたPTSDの賜物なのかどうか、一種の病理によって駆動される完璧主義としか言いようのない欲動が生む、圧殺の力は、当然自らに返ってくる。

■クーパー!!!!

 ガガ論を打つ前に、讃えるべき物を讃えるべきだろう。試写室が暗くなった瞬間までは「<アリー>は要らないんじゃ?(「アニー」じゃないんだから)そして、ブラッドリー・クーパーは、髭さえ伸ばせばバーブラ版の主演、クリス・クリストファーソンに似るから、だけなのでは、、、、ぐらいに思っていた筆者を吹き飛ばしたのは、言うまでもなく奇跡のブラッドリー・クーパーで、えええええええー? この人、こんな人だっのおー!!! と、驚いているうちに2時間ちょっと経ってしまった。と言うのは大袈裟ではない。

 風貌やオーラは言うまでもなく、歌唱力も、そして驚くべきはギターの腕まで、ミュージシャン上がり、あるいは、個人的に熱狂的なロックファン、など、掃いて捨てるほどいるであろう、「ハリウッド俳優の音楽ファン玄人はだし」の領域を遙かに超えている。「オレ、<ハングオーバー!>のシリーズ除けば、俳優としてより、ロックミュージシャンとしてのお前のがよっぽど好きだよ!!」というぐらいのレベルである。

 いかにも合衆国の田舎の人々が好きそうな、どっかで聴いたことがある様な、つまり安心出来る、オスカー受賞も全く夢でないどころか、大本命であろう主題歌(とはいえ、バーブラ版でバーブラが作った、「エヴァーグリーン」よりも遥かに良い曲)よりも、映画の掴みに演奏され、その圧倒のインパクトが最後まで残るほどの名曲「ブラック・アイズ」が、なんとブラッドリー・クーパー作詞/作曲なのである(しかも、音質も凄い。筆者は仕事の都合で、続けざまに『ボヘミアン・ラプソディ』を、利き酒のように見比べることになったが、あの完璧な「ライブエイド再現」のクライマックスの、スタジアムライブ感が、ペナペナに聴こえるほどの重厚な低音と分離。私的な記憶では、映画で聴けるロック音楽のヘヴィー感、ディストーション感の極点を突いており、オスカーはひょっとしたら、録音賞や整音賞さえ惜しまないかもしれない)。

 開始早々、いきなり「おいクーパー!!!!」と思っていたら、なんと監督までやっているではないか(唖然)。本来なら、この事実のヴァリューだけで本作は引っ張れる。しかし、自滅するジャックの独り舞台では、この定番物語は成立しない。主役はがっぷり四つのアニーが必要だ。そこでレディー・ガガである。

■ガガインフレ再び

 とにかく全身全霊をかけて事に当たる事を旨とするガガは、もう楽勝で体当たりオールヌードになったりするのだが、やっぱPG付けたくないから乳首は見えないし、ヒップの割れ目も見えないし(見たいとも全く思わない。ここに問題がある)、というか、繰り返しになるが、この映画の「体当たりのセックスシーン」なんかより、遥かにエロい表現を、とっくにガガはやっているし、それはシリアス部門、歌唱力部門でも全く同じで、ガガの感動的なステージは、音楽が与える純粋な音楽的感動を超えた余剰に溢れた、ある意味で「感動させすぎなほどの感動」を、何度も見せてきて、同じ上限をぐるぐる回るという、ある種の煉獄の中にいて、ひょっとしたら、本作の主演は、そこからの必死の脱出口だったのではないか? と推察するに難くない。しかし、残念ながら、脱出口にはならなかった、と筆者は見る。いつもながら完璧な歌と演技(ガガの音楽はリアルサイドでもガジェットサイドでも、常に演技的であり、一種の劇場型人格の、最も安心できる立場にいる)とても「ガガ新境地」には見えない、楽勝に見えてしまうからだ。

■では誰が?

 兎にも角にも、ブラッドリー・クーパーのロックミュージシャンぶりは、予備知識(筆者はやらないので未知だが、Twitterだのインスタグラムだので、彼が半ばロックミュージシャンである事をファンは知っているとか)がなければないほど我々を吹き飛ばす。骨太で硬派、というのはクリシェだが、ジョニー・デップが名だたる古参のロックミュージシャンと一緒に、楽しくバンドを組んでいる。というようなステージとは全く違う。

 3度目のリメイクは、換骨奪胎もひねりも何もない、古典に忠実な造りにして、ひょっとして最高傑作かもしれない強度と力感に満ちている。映画としては本当に素晴らしいし、何の文句も無いが、レディー・ガガという存在の禍々しさは、全然ミスキャストじゃない、もう彼女しかいない。という選択肢を誰もが掴んでしまうまでに及んでいる。デカすぎて映画に出ないと言われる(本人役以外2本しか出ていないし、まったく話題になっていない)テイラー・スウィフト(178)でも、185あるブラッドリーならギリいけたかなと思うも唇寒し、マイリー(・サイラス)とかケイティ(・ペリー)とかセレーナ(・ゴメス)とかいう話じゃないし、何かもうガガの主演は自動的に決まっているかのようでさえあるのである。

 しつこいようだが、ガガに罪はない。むしろ罪を犯して欲しいほどだ。誰もが、あのTIME誌までも、なんのためらいも曇りもなく、ガガの映画主演を賞賛する。本作の上限が、(以下、傍点→)既知の頂点で切られている(←ここまで)ことも知らずに。本作の最も幸福な観客は、レディー・ガガの活動を知らないか、大雑把にしか知らない者であろう。

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