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ぴあ

いま、最高の一本に出会える

菊地成孔の『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』評:<35ミリフィルムを使って70年代を再現した系>映画。の最高傑作としても全く異論はない。誠実で奇跡的な傑作

リアルサウンド

18/8/5(日) 10:00

■「SEX<E>S」ですよ!!

 タイトルだけ聞いたらエロ映画だと勘違いする人も多かろう。ここでの「セクシー」は日本人の大半が知る「セクシー」ではない。我々が知っている「セクシー」は「SEXY」であり、ややトートロジーめくが、「セクシー」のことだ。

 しかしここでの「セクシーズ」は「SEXES」つまり、単に「SEX(性別)」の複数形であり、若干の意訳を施せば、タイトルは「性別の闘争」といった意味になる。本作は1973年に行われた、女性世界一のテニスプレーヤーと、元男子世界一のボビー・リッグスによる、世界初の男女混合戦を描いている。

 筆者は個人的に、本作が2018年度の最高傑作になるのではないかと思っている。評価基準にならないのではっきり書くが、かなり泣いたし(というか、冒頭で、完全にテニスプレーヤーの体型と顔つきに改造したエマ・ストーンが、ジョディ・フォスターの顔だったこと、しかし、タイムマシンで20年前に本作ができたとしても、背の低いジョディ・フォスターが演じることはなかったであろうことに気がついたことが重なった瞬間から、落涙し始め、最後まで泣き続けていた)、冷静に三回見直したが、本当に素晴らしい。誠実で緻密で結晶度は極めて高い。

 少なくとも、「35ミリフィルムを使って、1970年代を再現した映画」史上の最高傑作であることは間違いないのではないか。PCやスマートフォンのプラグイン・エフェクトではなく、実際にコダック社が量産体制に入った(これにはタランティーノやノーランが大きく尽力している)、一度は廃盤にならんとしていた35ミリフィルムを使い、ザラついたローファイな画面、あらゆる時代考証をしっかりやって、70年代の音楽をツボを心得た選曲センス、「擬似70年代映画」を作る、というのは、もう、一つのジャンルであるとも言える。

 しかしそれは、オリジナル脚本になれば、ヒッピー感覚もしくは70年代式のオフビートなハードボイルド感覚、が扱われやすく、要するに美学的な偏向が生じる。

 功労者であるタランティーノの『ジャッキー・ブラウン』だけでなく、P・T・アンダーソンの『ブギーナイツ』『インヒアレント・ヴァイス』、シェーン・ブラックの『ナイスガイズ!』等々、作品の出来と関係なく、枚挙に暇がない。読者諸氏も、いくらでも思いつくことだろう。

 そしてこの美学的傾向を決定的にしたのが、例えばアルトマンの「擬似」ではない「真正」の70年代映画『ロング・グッドバイ』で、この作品などこそまさに「ヒッピー&ハードボイルド」なので、いわば美学的な原型化である。本作の監督、ヴァレリー・ハリス、ジョナサン・デイトン夫妻は「FOX SEARCHLIGHT MAGAZINE」のインタビューで、オルトマンの『ナッシュビル』や、ジョン・カサべテスの諸作を参考にした、と語っている。

 これは、同じく真正70年代映画のポランスキー『チャイナタウン』(描かれるのは30年代後半)などを含めた最高級品から、B~C級搾取映画の駄菓子まで含め、まず「70年代映画の美学的傾向」が70年代にフィクスされ、それが90年代以降から現在まで、「劣化されないコピー」として受け継がれている構図だと言える。

 80年代の再現、60年代の再現、50年代の再現などと並び、21世紀映画というのは、こうした「ある年代の再現力の格段の進化」という技術的な変革が、VFXなどと並び、映画のイマジネーションを律しているとも言っても過言ではない。機材のヴィンテージ性が美学のそれを律するのは音楽も同じだ。

 この傾向は後述する「史実の映画化」という力学との拮抗、という構図によって、よしんば下火にしたくとも出来ないほどエネルギーの充溢がある。そんな中、最高傑作である本作が生まれる。

■「史実の映画化」の弱度

 本作は「擬似70年代映画」であると同時に「擬似70年代ドキュメンタリー映画」である。

 「史実系」も花盛りで、近作でも『フロスト×ニクソン』だ、ニキ・ラウダを描いた『ラッシュ/プライドと友情』だ、あるいは意外とフレンチポップスに多く、厳密には6~80年代を貫通しているとはいえ、クロード・フランソワを描いた『最後のマイ・ウェイ』、ダリダを描いた『ダリダ~あまい囁き~』、マイルス・デイヴィスの70年代を描いた天下の珍品『MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間』だと、こちらも掃いて捨てるほどある。ありすぎてパッと思い出せないほどである。

 しかし、こうした作品群と本作が明らかに一線を画しているのは、本作が、ややもすれば「史実系」が持つ「これが事実なんだから仕方ないでしょうマイナス」というか、資料性に基づきながらも、遺族や関係者が残っていることで、重要なこの部分は描けない、といった引き算の抑圧や不全を、登場人物のほぼ全てが存命中(主人公の一人、リッグスは95年に死去)であるに関わらず、全く感じさせないこと、そして、「史実系」の根本的な弱点と評価する事もできる「ある時代の史実を通して、現代を逆照射する」「アメリカが反省する」といった、テーマ性を積極的に打ち出すことの放棄(「それが史実なのだから、それを淡々と描くことが最も誠実で豊か」といった、守備系の美学傾向による弱火化)を、逆転的に、そして熱烈に突破していることである。

■熱烈さよ。70年代を蘇らせろ

 おそらく整形も施しているだろうし、下手すると身長も伸ばしたのではないかと思わせるほど、レズビアン(当時は未自覚)であるテニスの名選手ビリー・ジーン・キングそっくり似せた、エマ・ストーンの圧倒的な肉体改造への執念と、絶対に間違い無く上前歯二本という、顔相の要である部分を惜しげもなく差し歯に差し替えることで、本人と見分けがつかないぐらいに顔を変え、むしろ「あれ? 本当の彼の顔ってどんなだったけ?」とまで思わせるスティーヴ・カレルの、もはや「デニーロや松田優作メソッドの後継者」とも言うべき、徹底した整形と肉体改造は、本編最後に出てくるボビー・リッグスの写真が、劇中のスティーヴ・カレルと全く見分けがつかない事によって、我々を慄然とさせる。

 こうした主演2人の熱烈さが、「実話もの」で弱腰になりがちな、強いテーマ性。即ち「当時勃興中だったウーマン・リブ運動(「リブ」は言うまでもなく「リベレーション(自由化)」の略語)」の実像を、フルスイングのスマッシュヒットのように描いている。

 「第二の公民権運動」とまで言われ、フェミニズムやジェンダー概念の源流になったたウーマンリブ運動が、合衆国という父系男根的社会のポテンツを完膚なきまで折りかける。ボビー・リッグスは、そのストッパーとなるべく立ち上がり、ここに「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」すなわち、世紀のミクストマッチが開催される運びとなる。

 そして、現在でもまだ複雑に絡み合ったままになっている、ウーマンリブ/フェミニズム/LGBT/ミートゥといった問題系のクラスタリングを、鋼鉄の意思と、天然の強みで、一個人的にほぼほぼ解決してしまったビリー・ジーン・キングの人生を描くこと、中でも我々に、ウーマンリブの激烈な戦闘が、いかに激戦化しなければならなかったか? という状況と戦況を余すところなく拾うことで、現在ネットの中で、エセ同和よろしく、エセLGBT、エセミートゥレヴェルで甘え腐りきっている、我が国の安っぽくチンケな被差別意識を、当時の合衆国が世界に誇ったマッチョのポテンツ以上に叩き折り切るだろう。

 冒頭に反復してもう一度書くが、本作でのエマ・ストーンの相貌は、明らかにジョディ・フォスターのそれであり、しかし、ジョディ・フォスターには、身長と鋼の肉体がなかった。そしてビリー・ジーン・キングはジョディ・フォスターには似ても似つかないのである。この、三つ巴の偶発的な憑依の連鎖が、映画的な奇跡の一つとして筆者の魂を揺さぶった。そして

■本作の、物語の凄み

 は、単なる勧善懲悪ではないことである。ここまで読んだ読者も、下手したら作品を鑑おえた観客も、ボビー・リッグスが、ガチンコの男性至上主義者=女性差別主義者で、アンチ・ウーマンリブのストッパーとしてビリー・ジーン・キングに立ちふさがった、と図式的に思い込むかもしれない。そして、不屈でありながら天才であるビリー・ジーン・キングに、完膚なきまでに負け、それが合衆国のマッチョ野郎共のポテンツを減し折り、まだ少数派だったウーマンリブ運動の支持者たちが溜飲を下げ、旧世代の男性至上主義者はガックシ。ということであったとしたら、この映画の輝きは、おそらく半分に満たない。

■ギャンブル依存と躁病性。という個人の病

 ウーマンリブ運動、LGBT差別の問題、というのは極めて社会的な問題である。厳密には数え切れないほどの個人個人の営為や欲望が、社会性にまで達するほど行使されたというべきだろう。

 しかし、再婚の妻を愛し、青年である連れ子も再婚の妻との幼子もこよなく愛する、心優しい、というよりは幼児性の抜けない天才テニスプレイヤー、ボビー・リッグスは、ギャンブルに依存してしまっている。

 ギャンブル依存の苦しさは、我が国の、特にユースからは失われてしまっても致し方ないが、マッチョの病であり(「男性の病」という意味ではない。「男性性の病」とするのが正しい)、昭和の御代には我が国にも「飲む、打つ、買う」という、すなわち、アルコール依存、ギャンブル依存、浮気依存の三羽烏として、殿方の深刻な問題だったので、記憶されている読者も多いだろう。

 しかし、筆者が感嘆したのは、彼がギャンブル依存との癒着体として、パフォーマンス依存、楽しませる依存、つまり躁病の地獄の中で、それと戦う姿が克明に描かれていることである。

 甘え腐った我が国の偽鬱病者は(念のため、真正かつ重症の鬱病者が存在しないとは決して言わない。偽鬱の可能性がフリーパス化されていると言っているのである)、鬱だから辛い、鬱だからかわいそう、鬱だから情けない、といった、鬱状態の弱度ばかりを嘆くが、ある意味、鬱以上に、止まらない赤い靴である躁病の方がずっと辛い。という事実は、特に我が国では余り知られ得ない。これは、やけくそになって誰彼構わず寝るビッチであるとか、毎日クラブに行ってナンパしないと、生きた心地がしないナルシシスト、とは全く違う。彼らは愛情飢餓からくる自己愛者で、躁病に罹患しているとは限らない。ハイであることは躁病とは違う。

 どんなに博打はしないと妻に誓っても、どうしても賭けテニスで勝ち続け、ロールス・ロイスが家に届いてしまうリッグスは、集団カウンセリング2つと個人の精神分析に通ってまでギャンブル依存を治そうとする、しかし、集団カウンセリングでは「問題はギャンブルをしてしまうことじゃない。負けることだ。お前らは負けたからここ来ているだけだ」と演説中にトランスしてしまい、精神分析のカウチでは、休憩中に分析医と楊枝を使った賭け事に没頭してしまう。躁病のなせる技である。

 そして彼は妻に別れ話をされるに至る。妻プリシラは言う。

「あなたは素晴らしいわ。男女ミックスなんて、本当にあなたらしい。誰でも自分らしくあるべきよ」

「私も、あなたが次々に奇抜なアイデアを出して、それを楽しんでいられた時代が懐かしいわ。とても楽しかった」

「でも、私に必要なのは、落ち着いて支えてくれる夫なの。あなたは悪くないわリッグス。でもさようなら。ごめんなさい」

 鬱によって愛が終わるかとは多々ある。しかし、躁なら愛が終わらない、などということは決してない。リッグスの孤独は、ビリー・ジーンのような明らかな被差別性のない地点で、重く深い。

■対決の構造が、集中的ではなく、バイウエイになっている

 そして聡明なビリー・ジーンも、リッグスが女性差別者などとは思っていない。リッグスは、大博打がどうしても止められなかっただけで、その大博打の内容が、社会的な問題であり、ビリー・ジーンの個人的な問題であるウーマンリヴと、ちょうどよくフックされていただけに過ぎない。そして、どちらも同じテニスプレーヤーとして、互いを尊敬しあっている。

 この精神的な近親関係が、共同記者会見の時の、心温まるバイブスに繋がる。ビリー・ジーンの本当の敵、合衆国という巨大なペニスを、むしろジェントルに振り回す悪質さを体現した者は、作中、別に存在するのだが、あまりにもネタバレになるのでここでは伏せておく。

 「70年代といえば、ベトナム戦争のラッシュバックによるダルいハードボイルド感、世界的な不況、ドラッグカルチャー、そんな空気感」ぐらいに思いこんでいる人々に、本作は「ウーマンリブ」という社会的な戦闘、そして、ギャンブル依存と、何よりも躁病も鬱病ぐらい辛いのだという、アメリカの深い闇を知らしめてかつ、非常にポジティヴで感動的なラストを迎える。ネタバレになるが、試合の後、ビリー・ジーンは糟糠の夫と離婚し、同性婚する。リッグスとプリシラは復縁して添い遂げるが、リッグスのギャンブル癖は死ぬまで治らなかった。

 拡大解釈が許されるならば、かの『ロッキー』にも通じる、肉体改造する者の苦行が見せる感動、ややもすれば現実の羅列と編集に終始してしまうコンテンツを、見事に練り上げた、無駄の一切ない、あらゆるセリフが胸に刺さる名脚本、数多い登場人物が全員、余すことなく魅力的であるという恐るべき力技、等々も含め、暫定王座とするが、筆者の「70年代再現映画」の中でのチャンプである。

 文字数の関係上、深く分析的に触れられなかったが、『ムーンライト』『マネー・ショート 華麗なる大逆転』で素晴らしいオリジナルスコアを書いたニコラス・ブリテルの作曲は、「なんとなく70年代っぽい」といった安っぽさに堕さず、70年代音楽の、あまりに手垢にまみれた部分を綺麗に避けて、なおかつ70年代音楽としか思えないマジカルなサウンドを量産し、現在のところ最高の仕事ぶりとなっている。劇中に召喚された70年代音楽は、筆者の耳の記憶としては、ジョージ・ハリスンの「美しき人生」、並びにエルトン・ジョンの「ロケットマン」で、実際の70年代サウンドと、再現され、イマジネイトされた70年代サウンドとの対比と融合によって、本作のほぼ冒頭から、観客の涙腺と知性を揺さぶり続ける。本作は誠実で奇跡的な傑作である。(文=菊地成孔)

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