Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

ぴあ

いま、最高の一本に出会える

荒木経惟 写真に生きる 写真人生の出会い

無名の俺に最初に声をかけてくれた。 恩師、桑原甲子雄さんとの出会い。

全11回

第4回

19/2/9(土)

写真雑誌でグラピア16ページの特集。
その後もずっと応援してくれた。

 俺の恩師というのは、桑原甲子雄【註1】さんなんだよね。まだ電通に入った次の年ぐらい(1964年)で、俺がカメラ雑誌に写真を応募していた頃に、桑原さんが編集長をやっていた『カメラ芸術』(1964年4月号)で、16ページのグラビア特集をやってくれた。無名の俺に、一番最初に声をかけてくれた。その頃はないからね、まだ無名なのに、16ページなんてさ。(桑原は1948年に写真雑誌『カメラ』誌の戦後3代目の編集長就任を皮切りに、『サンケイカメラ』、『カメラ芸術』、『季刊写真映像』、『写真批評』、『フォトコンテスト』などの編集長を歴任した。)

 桑原さんも生まれが下町の下谷(現在の台東区東上野)で、俺が三ノ輪で、同じ地区なんだ。俺のことをいいと思ってくれたのは、そういうこともあるんじゃないかな、同じ下町だって。カメラ雑誌の編集長をやっているから他の雑誌も見ているじゃない。俺は学生時代から雑誌の写真コンテストに応募しているから、俺の写真をいろんな雑誌で見ている。『日本カメラ』や『アサヒカメラ』や『カメラ毎日』とかね。だから、「さっちん」【註2】をね、下町の子供たちの写真を撮っているのも知っている。投稿すると、みんな賞を獲るわけだよ。雑誌に投稿した俺の写真を見ていてくれたんだ。

 俺は、さっちんやマー坊や子供たちの写真をバラバラにして応募していた。同じ時に撮ったのを、『アサヒカメラ』と『カメラ毎日』に出して、どっちも入選しちゃうと、両方に掲載されるんだよ。一種の二重応募みたいなものだよね(笑)。桑原さんは、俺がバラバラにして出してたのを見ていて、「写真をバラバラに発表しないで、僕にやらしてくれないか、ページを作るから」って言ってくれたんだ。

《少年》 写真を『日本カメラ』の写真コンテストに応募。1962年5月号に月例1席に入選。当時は「荒木のぶよし」で投稿していた。
《くもり日》 『日本カメラ』1963年1月号に掲載。荒木は学生時代からカメラ雑誌の月例写真コンテストやオートバイなどの雑誌の写真コンテストに投稿、毎月のように入選。賞金で学費を払っていた。

 「さっちん」は大学4年生のときに撮ったんだ(1962年から63年に撮影)。千葉大(工学部写真印刷工学科)に入ったら、写真って言っても何もなくてさ、バケ学(化学)だからね。化学実験とかがイヤで、よくさぼっては街を歩いて写真を撮ってた。写真映画専攻というところに行ったけど、なんにもないから、卒業制作のために写真広報学科っていうのをつくってもらったんだ。その頃は映画が好きで、よく観てたんだけど、時代はイタリーのネオリアリズモだろ。ロッセリーニの『無防備都市』だとか、(ヴィットリオ・)デ・シーカの『自転車泥棒』が好きで、たまたま俺んちの三ノ輪の近くにある三河島の古いアパートに行ったときに、あっ、デ・シーカだぜ、と思ったんだ。それから、なんどもそこに通いつめて、手回しのボレックスで撮って、写真も撮った。だから、卒業制作は、ボレックスで撮影した16ミリ映画なんだよね(モノクロ30分の映画「アパートの子供たち」)。

 三河島の戦前からのアパート、古くてさ、いいんだよ。匂いとか汚れとかさ、生きていくことに重要な人間臭さがあって、しょっちゅう通ってたね。真っ黒に日焼けした元気な少年が俺にパチンコを向けてきてさ、あわててよけたら、笑いころげてさ。タマが入っていないんだよね。それがさっちんだった。ガキ大将でさ、でも気が弱くて、自分みたいなヤツだなーって思ったね。名前が幸夫(さちお)だから“さっちん”。俺、ノブちんって呼ばれてたからね。だから、さっちんには偶然出会ったんだよ。マー坊はさっちんの弟で、マー坊のほうが気が強かった。子どもたちが一日中、汗まみれで走り回ってた。生き生きとしてたね。

 「さっちん」で「太陽賞」を獲っただろ(雑誌『太陽』の創刊1周年を記念して創設された第1回太陽賞〔平凡社主催〕を受賞)。桑原さんがやってくれたグラビア特集は「マー坊」。桑原さんは、荒木を最初に見いだしたのは自分だとよく言ってくれてたらしいんだ。「太陽賞」への応募が先なんだけどね。でも、お父ちゃん(桑原)はさ、自分が先だってみんなに言っているからさ。そうだそうだって(笑)。やっぱりお父ちゃんが見いだしてくれたというのがいいじゃない。嬉しいよね。その後も、俺のことを、ずっと応援してくれた。

「さっちん」 大学4年の夏から三河島の戦前からある古いアパートで出会ったさっちんと弟のマー坊。映画と写真を撮った。1962-63年撮影。

 電通をやめた後、桑原さんが編集長をしていた雑誌で、1年間、表紙の撮影をしたこともあるんだよ。(1964年、桑原が編集長の写真雑誌『フォトコンテスト』の表紙「当世写真家列伝シリーズ」を荒木が担当。桑原がインタビューをした)。その時に俺は桑原さんに、今流行っている、今世に出ている写真家をみんな表紙にしたいと言ったんだ。というのはね、俺は知りたかったわけ、どんな写真家がいるかとか。土門拳に会いに行くとかさ。だから土門拳から篠山紀信まで撮っているわけだよ。

荒木と桑原甲子雄。1972年頃。

※註1
桑原甲子雄(くわばらきねお)(1913-2007年)/写真家、編集者、写真評論家

1913年、東京・下谷(現在の台東区東上野)に生まれる。1931年、東京市立二中(現、都立上野高校)卒業。戦前はアマチュア写真家として活動。2万カットにおよぶ街や都市のスナップを撮り続けた。この時期の写真が後年、写真集『東京昭和十一年』(1971年)にまとめられ、高い評価を受ける。戦後は、アルス社に入社し『カメラ』誌の編集長をつとめ、以後は、『サンケイカメラ』(産業経済新聞社),『カメラ芸術』(東京中日新聞社),『季刊写真映像』(写真評論社)、『写真批評』(東京綜合写真専門学校出版局)などの編集長を歴任。『カメラ芸術』編集長時代には、荒木経惟をいちはやく評価するなど、編集者として、時代に感応する先進的な姿勢を示した。写真集に『東京昭和十一年』(1974年)、『満州昭和十五年』(1974年),『夢の町』(ともに晶文社 1977年)、『東京1934〜1993』(新潮社 1995年)、評論集に『私の写真史』(晶文社 1976年)などがある。

※註2
『さっちん』

荒木が千葉大学4年の1962年の夏に、東京の下町、三河島の戦前からある古い共同アパートで出会ったさっちん(当時小学4年生)と、弟のマー坊、子どもたちを翌年にかけて撮影。子どもたちの生き生きとした躍動感あふれる姿を活写。1964年に第1回太陽賞(雑誌「太陽」の創刊1周年を記念して創設〔平凡社主催〕)を受賞。受賞作として雑誌「太陽」に発表・掲載された。当時、グラビア印刷はネガ入稿だったためネガを手渡したが、ネガが紛失、幻のデビュー作とされていたが、1994年に残っていたネガから再構成した写真集「さっちん」(新潮社)が出版された。2017年には発表時の掲載雑誌を元にしたオリジナル版「さっちん」(河出書房新社)が刊行された。

桑原さんの『東京昭和十一年』は、
俺がプリントして、写真を選んだ。

 桑原さんの(写真集)『東京昭和十一年』はさ、俺がプリントしたんだよ。戦前に撮影した写真のネガを見て、驚いたね。戦争で焼け残った家の倉庫から出てきたらしいんだ。ずっと箪笥の中にしまっててさ、俺に見せてくれたんだ。

 その頃、神楽坂にあった暗室で、俺がネガから写真を全部プリントしたの。見たら、なんで今までこれを発表しなかったのか、というのがあるんだ。本人もアマチュアで、戦前から写真を撮り続けていて、編集長になる前は写真雑誌に投稿をしてたからね。雑誌の投稿(『カメラアート』など)で年間1位とかもとってたんだ。浅草の乳母車を押しているような名作があるじゃない。ああいうのがいいって、それは選んでいる。だけど、選び損なっていたのはね、例えば、バスに乗って、バスの窓から見かけた婦人が小走りに走ってくる。着物の裾が乱れている、そういうふうなのは選んでないわけ。だから、(森山)大道さんじゃないけど、“背中もの”が多いわけよ(笑)。

 桑原さんは、俺の写真をイケてると思ってくれたから、こんな良い写真を撮るヤツは、良い写真がわかるだろうと任せてくれた。でも、不思議なんだよね。あんなに編集長を長くやっていたのに、コンタクトにしてみたら、俺がいいなと思う写真は自分では選んでないわけ。自分の写真は選べないんだね。だから俺が選んであげたの。選び損なったのに、良いのがあるんだよね。

 一種のコンプレックスがあったんだよ、桑原さんには。その頃は木村伊兵衛【註3】だろ。自分の写真なんか到底及ばないと思いこんじゃっているからね。だから発表しなかったのよ。木村伊兵衛の写真に比べたら発表するようなものじゃないって。木村伊兵衛の写真の良さがわかるから、積極的に作家活動というか、自分の写真は発表しなかった。

アプリで読む