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松坂桃李、日本映画界に欠かせない俳優に 『不能犯』『娼年』『孤狼の血』まで、その演技を考察

リアルサウンド

18/3/6(火) 6:00

 映画の中で描かれる嘘にリアリティを与えるためには、俳優の力が不可欠だ。これが特撮映画ならば、特撮技術とそれを見せるセンスがなければチープなものにしかならないと思いがちだが、宇宙人なり、怪獣を見つめる俳優たちの演技も映画の成否を大きく左右させる。撮影現場では山の頂や、長い棒の先に目線を送って、あたかもそこに巨大な怪獣が出現したかのように彼らは演じなければならない。実にバカバカしく、本気で演じる気にもなれない――と思って演じた俳優の態度は如実に画面に伝染する。池部良は、『妖星ゴラス』(62年)の頃はまだしも、60歳を目前に出演した『惑星大戦争』(77年)になると、明らかに不機嫌な顔で、こんなものに付き合っていられるか、という態度がすけて見え、共演の沖雅也も手を抜いているのが一目瞭然だった。『スター・ウォーズ』(77年)公開前に急遽こしらえたパチモノ映画だけに同情すべき余地があるとは言え、『惑星大戦争』のつまらなさは俳優にも何割かの責任がある。

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 ことほどさように、映画の中で描かれる嘘が大きくなればなるほど、脚本や演出と共に、俳優が虚構と真剣に向き合えるかどうかがカギを握る。その意味で、松坂桃李が相手をマインドコントロールすることで刑法に問われない完全犯罪者を演じ、刑事の沢尻エリカが追う『不能犯』は、この2人をキャスティングしたことで成功が半分確約されたようなものだ。何せ、巨大な力を持つ超能力者・松坂によって次々引き起こされる狂的な殺人事件と彼を追う沢尻らの捜査網を軸に、都市で無差別に発生するテロ事件も描かれるスケールの大きさだけに、それなりのバジェットで作られているとはいえ、派手な爆発は合成でしかないし、警察が出てくると言っても、重厚なセットは見られない。つまり、映画の中で描かれる〈大きな嘘〉を成立させるための裏付けとなるディテールが弱いのだ。普通に作れば日本映画の予算の限界が垣間見えてしまうスカスカになりかねない部分を、この作品は白石晃士監督のセンスと、松坂桃李と沢尻エリカの演技によって映画を何倍も大きく、豊かに見せている。

 最初は、大して気にも留めていなかった俳優が、ある時期から隅に置けない存在になることがある。遂には、その俳優が出ているからという理由で、映画や舞台を見に行くようになる。筆者にとって松坂桃李はそんな一人だ。映画は『僕たちは世界を変えることはできない。』(11年)あたりから観ているが、目を引くようになったのは、主役ではなく、助演で思わぬ怪演を見せた時からだ。『ピース オブ ケイク』(15年)で松坂はオカマの天ちゃんを演じたが、奔放に主役たちに食らいつき、過剰な芝居をやり過ぎになる直前で引いてみせる節度も好ましかった。この人は、エキセントリックな役や非現実的な役を成立させてしまうのではないか――という予感は、続く『劇場版 MOZU』(15年)の殺し屋役でも立証されたが、昨年の『彼女がその名を知らない鳥たち』(17年)で見せたデパート店員の様に、市民生活に埋没したごく平凡な何の特徴もない男を演じても、やがて劇中で存在感をみるみる大きくする面白い存在になってきた。

 今後の公開作に目を移せば、『娼年』(4月6日公開)では下北沢のバーでバイトする大学生という、これまたどこにでもいるような役である。男娼のコールクラブに誘われたことから、年齢も境遇も異なる女たち――20代から70代に至る性的趣向もまるで違う女たちに寄り添い、奉仕することになる。松坂が男娼を始めた頃、コールクラブで最も人気を誇るVIPクラスの同僚(猪塚健太)から、直ぐにトップに登りつめるだろうと予言される。松坂は信じられないという顔をしているが、あっという間にVIPクラス入りを果たす。『娼年』はCM畑の撮影監督によって撮られているだけに、凝った映像で「裸体/性交/東京」を映し出すが、ごく普通の青年だった松坂が男娼として変化していく姿は映像に依拠しない。肉体を無防備に晒し続ける松坂の全身演技によってその変貌を見せるのだ。全篇の8割方が全裸の性交シーンだけに、何人もの女たち(時には男も含まれる)と交わる松坂は、性交を演じ分けなければならない。肉体が弛緩したり、退屈なセックスを見せようものなら、映画自体が崩れてしまう。まさに松坂の存在だけで映画を成立させられるか否かが問われ、そうした繊細な要請に応えてみせている。

 続く『孤狼の血』(5月12日公開)で新人刑事を演じる松坂も、最初はどこにでもいる特徴のない若者にすぎない。暴力団組織と癒着し、法規を無視した荒っぽい行動で抗争の火種を押さえ込もうとする先輩刑事・役所広司の強烈な個性の前では、松坂の存在など霞んでしまいそうに見える。それが執拗に彼へ食らいつき、激しく反発しつつ、遂には役所を超える存在感を現すようになる。殊に後半になると、松坂の肩に映画の全てがのしかかるほど大きな役目を担うことになる。役所とは対極的な演技で同じボルテージに到達しなければ映画は失速してしまうだけに、いくら原作が面白くとも、いくら優れた脚色がなされていても、いくら見事な演出が細部まで施されていても、全てが松坂にかかってくる。『孤狼の血』が傑作になった理由は、松坂を抜きには考えられない。

 こうして今年の松坂桃李の出演作を見ていくと、市民社会側からあちらの世界へと越境していく役が多いが、『不能犯』は、最初から越境後の世界の住人である。黒ずくめの服で廃墟に佇む姿が象徴するように、宇相吹正を演じる松坂は、生活臭や人間味を微塵も感じさせず、特殊能力者に相応しい無機質な不気味さで全篇を演じきる。白石晃士監督によると、「原作では宇相吹正のちょっとだけ人間味のある要素……家賃が払えなくて追い出されたり、猫が好きだったり…というところも描かれていますが、映画ではそれは一切排除しています。松坂桃李さんが持っている本来の人の良さが出ると、宇相吹が優しくなりすぎてしまうのでは?と思ったので、あえてユーモラスな瞬間はなくしていきました」(プレスシートより)とのことだが、これは松坂桃李という俳優を的確に評した至言だろう。『日本のいちばん長い日』(15年)で演じた畑中少佐の狂的な振る舞いを思い出せば、〈人間味〉を排除したことで、松坂は一線を越えた狂気を存分に表出させていた。

 ところで、『不能犯』の松坂は〈眼力〉が求められる役である。相手の目を見つめるだけで死に追いやってしまうだけに、その威力を表現するためにCGで網膜への衝撃が表現されるが、それだけでは松坂の特殊能力は表層的にしか伝わらない。ここでも松坂の振る舞い、仕草を含めた演技によって、〈眼力〉が発揮される。そして、当然ながら見つめられる側にも能力が求められる。冒頭に記した怪獣を本気で見つめることが出来るかという問題と同じく、本作の世界観が維持されるかは、本気で松坂を見つめ、そして見つめられることが出来るかが問われる。それだけに、キャスティングには〈見つめること/見つめられること〉が印象的だった俳優たちが揃う。

 もはや千葉真一の名を出すまでもなく実力派の若手として頭角を現す新田真剣佑に父から受け継いだ最良のものを挙げるなら、目の輝きと鋭い眼差しだろう。間宮祥太朗も『全員死刑』(17年)で人を殺す時に見せる相手を見つめる眼差しは、全力で首を絞めているとはいえ、眼力でも殺せただろうと思えるほど凄まじい。その点では、若い刑事の一人である菅谷哲也も、かつて出演した映画で見つめることが印象に残ったことを思い出す。『テラスハウス クロージング・ドア』(15年)の冒頭は、TV版最終回のラストカットから続いていたが、テラスハウスを出ようとする菅谷が何かを呆然と見つめるところでTV版は終わり、映画では彼が見つめる先に新たな住人となるヒロインが立ち、すぐさま一目惚れした菅谷が再びテラスハウスで暮らすようになることで映画は始まった。台詞も一切ないままに、車寅次郎よろしく失恋を予感させながら瞬時に恋に落ちるのを眼だけで表現した菅谷が『不能犯』のキャストに相応しいのは当然だろう。さらに、瞬きひとつせずに怪演する鑑識課の安田顕と、『鉄道員』(99年)で高倉健を尋常ならざる愛着をこめて見つめ続けていたのが忘れがたい小林稔侍もいる。見つめることに長けた俳優たちが周到に配置されているのが分かるはずだ。

 そして、松坂桃李に見つめられても唯一影響を受けないのが、沢尻エリカである。なぜ、彼女だけは死に至らないのかは明かされない。強いて言えば沢尻エリカだからと言いたくなるほど、邪悪な存在に正面から立ち向かう強さを見せる。それにしても、30代に入ってからの〈非熱演型俳優〉としての力の抜けた彼女の軽やかな演技は、同世代俳優の中でも突出している。『新宿スワン』(15年)でクスリに溺れ、歌舞伎町の風俗に勤めながら、いつか王子様が迎えに来ることを夢見る女を20代も終わりに差し掛かった沢尻が演じるのは、いささかトウが立ちすぎているのではないかという下馬評が公開されると同時に一掃されたのは、こうした役を若手女優が力んで演じれば演じるほど、泣いて叫ぶことが熱演とカン違いしたような幼児的演技でわめき散らすだけだが、沢尻はこうした非現実的な役を、地に足が着くか着かないかの数センチ浮いているかのように軽やかに演じることで成立させたからでもある。

 ちょっと話が飛ぶようだが、30年近く前、竹中直人がハリソン・フォードについて、こんなことを書いていた。

「ハリソン・フォードの役作りというのは、髪型と顔にあるのではないでしょうか。改めて彼の出演した数々の作品をチェックしてみると、髪型が皆違います……。(略)彼には役作りなどというくだらないものはなく、髪型作りと顔作りだけ。だから芝居がどの作品を観てもうるさくなくセンスがよいのです」(『少々おむづかりのご様子』角川書店)

 なんだか悪口のようにも聞こえるが、ロバート・デ・ニーロやダスティン・ホフマンを始めとするアクターズ・スタジオ出身俳優のご立派な役作りよりも、そんなことを何も考えずに表層的に演じるハリソン・フォードの方が良いと言っているわけだ。実際、ここ数年でインディ・ジョーンズ、ハン・ソロ、リック・デッカードを再演しているが、〈髪型作りと顔作り〉を怠らないことで、年齢こそ重ねたものの往年の名キャラクターのイメージを損なわずに観客の前に姿を現したことを思えば、30年前の竹中直人の分析は的を射ていたのではないか。もっとも、こうしたタイプの俳優は演技賞の対象にはなりにくい。ハリソン・フォードがアカデミー賞にノミネートされたのは、『刑事ジョン・ブック目撃者』(85年)が主演男優賞候補になった一度きり、それも作品の内容で評価されたようなところがある。

 こうした〈髪型作りと顔作り〉の俳優を日本で挙げるならば、沢尻エリカではないかと筆者は思っている。『不能犯』の冒頭で新人刑事と組んだ沢尻は容疑者を追跡するが、髪も息も乱れることなく、颯爽と逮捕してみせる。内面を見せようとか、女性刑事のリアリズムを追求しようなどと余計なことをすることなく、画面の中でどう振る舞い、どんな型を見せることが相応しいかに徹することで、圧倒的な虚構に対峙してみせる。実際、行きつけの料理屋でリラックスする沢尻と、署内の喫煙所で煙草をうまそうにくゆらせる沢尻、眼の前で人が死に爆発が起きるのを目にする沢尻の演技は一糸の乱れもないだけに、松坂がダークヒーローとして虚構の限りを尽くしても、全て受け止めてみせることが可能になる。リアリズムでは作り上げることができない圧倒的な虚構を前にしても、怯む必要がないからだ。一方で、部下の新田真剣佑が瀕死の重症を負う病室を沢尻が訪ねるシーンでは、「新人、あれで良かったのかな」とベッドに横たわる後輩へ泣き声で話しかける彼女のバストショットで一筋の涙がスッと流れるが、直ぐに次のシーンへと切り替わる。ウエットな場面を素早く切り上げる白石晃士監督のドライなセンスと共に、感情過多なうるさい芝居とは無縁な沢尻の魅力がいっそう増す。

 おそらく、本作についてもっと大きな予算をかけることができていれば――という意見もあるだろうが、ビジュアルをいくら豪勢に装飾しても、そこに優れた演出と、優れた俳優たちが揃わなければ、空虚なものにしかならない。『不能犯』を観れば、このスタッフとキャストで次なる大作が実現することを願わずにいられないはずだ。(モルモット吉田)

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