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『来る』評価二分の理由は“二つの先進性の絡み合い”にあり? 中島哲也監督の作風から探る

リアルサウンド

18/12/22(土) 10:00

 38億円以上の興行成績をあげた『告白』(2010年) によって一躍、日本を代表するヒットメイカーの一人になった中島哲也監督 。同時に、新作公開の度に賛否の渦を巻き起こすことでも知られている。今回の『来る』もやはり物議を醸す作品になっていて「さすが」と思ってしまう。

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 ここでは、なぜ中島哲也監督作がそういう性質のものになってしまうのか、そして本作『来る』は、その監督作のなかでどういう意味を持つものになったのかを、できるだけ深く考えていきたい。

 賛否の大きな要因は、これまでにCMやミュージックビデオを手がけ、その手法を映画の演出のなかでも積極的に使用している中島監督の作風にある。カット割りが多く、CGをためらわずに使用し、画面の装飾が過多だったりなど、「かっこつけた」映像が「映画的でない」……要するにヴィジュアルだけの作家だと、一部の評論家や観客から敬遠されているのだ。

 しかし、それは保守的な見方ではないかと私は思う。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(1925年)や、ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1960年)などは、かつてあり得なかった破壊的で反自然的な編集によって映画表現の幅を広げ、現在の「映画」をかたちづくる礎となっている。映画史を踏まえた知性や、映画における職人的な技術に魅了される作品は、確かにある。しかし、ミュージックビデオのような「非映画的」に感じる演出すら包含し得るのが、本来の「映画」なのではないだろうか。

 それでは何を問題にしたいのかというと、その表現自体が純粋に優れているかどうかに尽きる。 中島哲也監督の「表現力」は、日本国内の監督のなかでずば抜けているといっていい。CGなど特殊効果を使い、エキセントリックな編集を行いながら、ハッとさせられるような映像体験を一つの作品のなかでいくつも作ってしまう。

 とくに日本では少ない、既存の表現をアレンジするよりも、自分自身のイメージをクリエイトする能力に長けているタイプである。これは得難い才能であろう。以上が私の中島哲也監督への、大枠での評価だ。それを前提にして話を進めていきたい。

 岡田准一、黒木華、小松菜奈、松たか子、妻夫木聡と、豪華キャストを集めた『来る』は、日本ホラー小説大賞を受賞した澤村伊智の『ぼぎわんが、来る』を原作とした、超自然的で邪悪な「何か」に襲われる一家と、霊能力で立ち向かう姉妹、そして事件に巻き込まれたオカルトライターらの戦いとドラマを描いた映画だ。

 まず指摘したいのは、前作『渇き。』(2014年)同様、本作『来る』は、『告白』までの作品に比べて、登場人物たちの心情の裏にある背景を、かなりの部分で説明していないという点だ。妻夫木聡演じる、イクメンパパを気取る「秀樹」の祖父母についてや、黒木華演じる、育児ノイローゼ気味の母親「香奈」の、最後の登場カットで浮かべる笑みの理由……そういったものの裏に何が潜んでいるのか、そして肝心の「あれ」とは何なのかについて、観客に開示する姿勢を見せない。だから、原作小説を後から読むと、「なるほど、そういうことだったのか……」と、映画だけでは分からなかった設定がいろいろと理解でき、作品の全体像を補完することができた。

 観客の心をつかむには、多くの場合、登場人物への「共感」がベースとなる。感情移入できない人物が物語のなかでどうなろうと、観客はさして興味を持てないからだ。本作は、共感を生む手前で登場人物の説明を止めてしまう。これによって、ばらまかれた様々な要素が不発に終わり、『告白』までの作品のような感動を得にくいのだ。

 松たか子と小松菜奈の、霊能力を持った姉妹のキャラクターは、『アナと雪の女王』を彷彿とさせるようなアイドル性によって、観客の支持を受ける可能性は十分あったはずである。もはや国家レベルの大事業として描写される、大規模な「お祓い」についても、楳図かずおの『神の左手悪魔の右手』や、大友克洋『童夢』などを思い起こさせる、霊能力や超能力による漫画的な面白さを発揮させつつも、上記のような理由によって、いまいち爆発しきらないのだ。

 では、この映画は失敗したつまらない作品なのだろうか。もし本作に十分な説明を与え、各登場人物に観客が自分を重ねられるように変えてみたとしたら、確かに現状よりも支持は増えていたかもしれないし、話題になったかも分からない。そしてここで描かれた社会問題についても、注目され議論が深まっていたような気もする。だが、そのような想定内に収まる成功した作品は、別の意味で「面白くない」ものになったのではないかとも思える。すでに『告白』が、その線の表現をある程度究めてしまっているからである。

 説明を省いて、観客に映像の意味を想像させるような手法は、アーティスティックな映画では珍しくない。『渇き。』においてその萌芽を見せていたように、本作もまた、それを娯楽表現のなかで行っているところが特徴的なのである。『下妻物語』(2004年)や『告白』などによって旧弊な「映画的表現」を逸脱しようとしてきた中島監督は、ここで新しく、娯楽映画でありながら娯楽映画の手法に抗うようなアンビヴァレントな姿勢を見せ始めている。だから、『渇き。』や『来る』は、いままで以上の先進性を持った作品であり、その意味でエキサイティングなのだ。

 それでは本作において、その手法はどんな効果をもたらしているのだろうか。確かにここでは、人間の内面に入り込んでいくという感覚は薄い。しかしそのおかげで、人間模様を俯瞰から眺めるようなものになっているところが面白い部分なのではないだろうか。

 本作はホラーでありながら謎解きミステリーの要素もある。ミステリーの定型として、ある事件があり、それが起こる原因や人間ドラマがあり、そこに名探偵のような存在が現れ、事件が解決されるとともに人生について考えさせる。そのようなオールドスタイルに、表面上は則った作品であるといえる。だが、そういう作品は楽しみ方が分かりやすい分、限定されたテンプレートに収まる、想定内のものになりがちである。その種の作品で最も不満なのは、事件に対する解決役の態度が、どうしてもルーチンワーク的で、物語から除外された立場になりやすいということだ。

 その点、本作はそのポスターの構図が象徴するように、登場人物全員を上から眺めるような視点で進行することで、全員を感情移入させ過ぎない、どこかに不可解な部分を持った存在として並列的に配置している。それは、たとえ解決役であっても、どうしても人間の限界から脱することができないという、じつは物語の内容に則した演出にもなっている。

 本作は、そういう意味で枠から外れたアプローチをする新しさを獲得しているといえよう。それだけに、楽しみ方が分かりづらいのも確かで、そのことが「ヴィジュアルだけの監督」だと一部で思われていることと相まって、ただ空疎な作品だと誤解されるという不幸さを持っているのだ。評価が割れるというのは、つまりはここで述べた、二つの先進性が絡み合うことで発生していると考えられる。

 だが、多くの映画やドラマにおける、決まりきった楽しみ方に飽き飽きしている観客からすると、本作のようなものこそ楽しめるはずである。娯楽性を捨ててアートに走るというわけでなく、予算をかけた娯楽作のなかで、常に新たな挑戦をする。それは、かつてまだ経済的に豊かだった頃の日本映画ではよく見られていた傾向だ。いまではこういう映画は、貴重な存在になってしまっているのだ。だから中島哲也監督作には、そういう意味での懐かしさもまた感じるのである。(小野寺系)

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