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森直人の『ROMA/ローマ』評:キュアロンの壮大かつ正統な“自主映画”から考える映画の「現在」

リアルサウンド

19/5/9(木) 10:00

 いくらハイクオリティの傑作でも、劇場のスクリーンで上映されない作品を映画と呼んでいいのか否か?

参考:森直人の『ROMA/ローマ』評

 ここ2~3年で一気にせり上がってきた、インターネット配信限定作を「映画」として扱うべきかどうか問題――。この議論の本気度を無視できないステージにまで高めた感があるのが、Netflixオリジナル作品であるアルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』である。結局のところ本作はアメリカや韓国など30ヶ国余りに続き、日本でもめでたく劇場公開の運びになった。この件自体は非常に喜ばしく、2019年度上半期の映画界を代表するトピックのひとつに挙げられるだろう。

 すでに作品としての評価はハンパない。ワールド・プレミア上映が行われた昨年(2018年)のヴェネチア国際映画祭では金獅子賞を受賞。今年2月の米アカデミー賞では配信スタート前からの限定劇場公開を受けて、最多10部門ノミネートされたうち、監督賞、撮影賞、外国語映画賞の3部門を獲得。最も花形の作品賞は『グリーンブック』(監督:ピーター・ファレリー)がもぎ取ったが、もし流通面での引っ掛かりがなかったら『ROMA/ローマ』の受賞は堅かったのではと思えるほど。カンヌではハナから影も形もないわけだが、この場所は2017年のコンペに『オクジャ/okja』(監督:ポン・ジュノ)と『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』(監督:ノア・バームバック)が入って物議を醸して以来、Netflixと戦争状態にある敵陣だから仕方がない。ざっくりまとめると、程度の違いはともかく、大方の映画プロパーにとって『ROMA/ローマ』の支持に躊躇する点があるとすれば、要はネトフリの配信動画ってことだけなんだよね、というわけだ。

 ところで、なぜ「映画」として扱われないとダメなのか。そんなのどうでもいいじゃん!という意見や疑問も当然出てくるだろう。

 そこには様々な事情が介在している。ひとつには各映画祭の混乱を見てもわかるように「評価」の枠組みが対応していないことだ。例えば(筆者も参加している)「キネマ旬報ベスト・テン」は、日本映画も外国映画も劇場公開された作品だけが選出の対象となる。2018年度、『ROMA/ローマ』は12月14日から全世界同時オンラインストリーミングが始まっていたが、当然選出にはカウントされなかった。しかし今年の3月9日から劇場公開されたことで、2019年度にはおそらく年間最上位を争う作品として同ベスト・テン枠に迎えられることになる。

 もし、ではなく確実に、今後は「映画」の形をした配信動画作がどんどん増えていくはずだ。カンヌならずとも、さあどうするか? これはオリコンチャートがCDの売り上げのみを数えることでリアルな市場状況と乖離した問題と似ているかもしれない。つまりは映画史の記述という問題。流通の多様化/液状化により、20世紀型の状況把握や歴史認識のスタイルが岐路に立たされているのである。

 逆に言うと、『ROMA/ローマ』の劇場公開はギザギザの論争を一旦鎮め、事を丸く収めようとした感もあるのだが(笑)、いやしかし、これは映画ファンの欲望が生んだ祭りだとまずは素直に言いたい。というのも、『ROMA/ローマ』は極めて王道のシネマティックな愉楽に満ちた作品であり、自宅のテレビやパソコンサイズの視聴環境では確実に不全感が残る。ディープに映画に親しんでいる者なら、絶対でっかいスクリーンと高スペックの音響でバスタブに浸るように味わいたい! と思わせるように出来ているからだ。

 日本の公開状況を振り返っておくと、当初は全国のイオンシネマ48館で上映とアナウンスされたが、まもなく増えて計77館での拡大展開に。多くの劇場では3月9日から4月11日まで約1ヶ月に渡り公開され、ゴールデンウィークに入っても都内ではアップリンク吉祥寺・渋谷やシネスイッチ銀座が上映を続けた。ベタに言えば平成と令和をまたぐ興行になったわけで、それなりに広範囲でのロングランと言っていい。そして重要なのは、従来の映画配給会社を介さず、配信プラットフォームと、劇場としては新興勢力となるイオンシネマ(株式
会社ワーナー・マイカルからイオンエンターテイメント株式会社へと変わり、新生イオンシネマが誕生したのは2013年だ)らが直接タッグを組んだ異例の興行形態となったことだ。

 ちなみに筆者は、上映館の中では自宅から比較的近い「イオンシネマ シアタス調布」(2017年開業)で二回鑑賞している。最初は526席という都内シネコン最大級のスクリーン10で、当館名物の「ULTIRA上映」にいそいそと出かけていった。これはほぼ壁一面を覆う4K対応の高画質スクリーンと、「GDCfeaturing dts-X」なる立体音響システムを独自に組み合わせ、極限まで没入的な臨場感を高めたもの。これが『ROMA/ローマ』という作品の再生環境としてめちゃくちゃハマった。本作の何よりの傑出点は、劇伴がなく現実音のみで設計された繊細かつ緻密なサウンドスケープ。「ULTIRA上映」では世界像を構成する一粒一粒の有機的な要素が鮮明に、まさしく立体感を持って際立つ。冒頭の床掃除の水が流れるショットから鳥肌モノで、個人的にも近年ベストのひとつと断言できる圧巻の極上映画体験を味わえたのである。

 この回の脳内で残響する深い余韻に任せて、また後日、今度は82席のスクリーン8で鑑賞した。さすがに通常上映では前回の体験を補完する程度にとどまったが、それでも家で悶々としているより、おかわりとしては一定以上満足できるものだった。

 ただ残念というか、歯痒かったことがひとつある。二回ともお世辞にも客足が良いとは言えなかったのだ。「広範囲でのロングラン」であることは前提としつつも、もうちょっと客席が埋まってもいいのではないか? と「シネフィルモードの俺」が地団駄を踏む。しかしその一方で、まあ、いつでもインターネット(ベーシックプランなら月額税込み864円)で視聴できるしなあ、と「一般生活者の俺」が冷静に呟く。

 そうして、まもなく筆者はふと気づくのだ。これって結局、数多くの「良質な映画」が陥っているジレンマとほとんど同じじゃないか? という身も蓋もない事態に。もし『ROMA/ローマ』の劇中で『大進撃』(1966年/監督:ジェラール・オウリー)や『宇宙からの脱出』(1969年/監督:ジョン・スタージェス)を上映している映画館のように、ぎゅうぎゅうの客席で本作を鑑賞できていたら、「配信作が結局劇場の必要性を証明するなんて、皮肉かつ痛快な逆説ですね!」と笑顔で喝破できたのだが、なかなかそうスカッとはいかないのが浮世の現実なのだった。

 ところで本稿ではここまで『ROMA/ローマ』の内容にほぼ全く触れてこなかったが、本作はそもそも衝撃作といったような派手な作風のものではない。物語の舞台設定は1970年代初頭のメキシコシティのローマ地区。高級住宅地で暮らす医師の一家の日常が描かれ、住み込みで働いている先住民の若い家政婦クレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)が主人公となる。彼女は監督のアルフォンソ・キュアロンが第二の母と慕うリボという乳母の女性がモデルらしい(ゆえに映画のラストで「リボに捧げる」との献辞が出る)。つまり1961年生まれである監督自身の少年時代の想い出がベースとなったものだ。

 本作では後半部に1971年6月10日の「血の木曜日」――エチェベリア政権に抗議する大規模な学生・教職員のデモ隊と、体制側が激突した凄惨な史実が用意されている。この事件に外出中だった出産間近のクレオが巻き込まれる。はじめはデパートの窓の外で大暴動が起きているのだが、やがて店内に銃を持った若者たちが乱入し、クレオの元カレのフェルミン(ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ)がデモを弾圧する側の武装集団のひとりとして現われる。

 このパートは「衝撃」の名にふさわしい緊張感と硬質のダイナミズムで観る者を圧倒するのだが、それでもキュアロンは「派手」さに流れがちなスペクタクルの濫用を禁欲的に抑制しており、大部分は淡々と静謐なタッチが続く。なおモノクロームの撮影は、キュアロンが初期からずっと組んできた同じメキシコシティ出身の盟友である名手エマニュエル・ルベツキに替わり(スケジュールの都合らしい)、キュアロン本人が手掛けている。6Kの65mmデジタル・シネマカメラ「ARRI ALEXA 65」を使用したワイドレンズでの撮影も、決して光と影のコントラストを強調した審美性ではなく、引き算の発想で世界を捉え、自然光を活かしつつ被写体の生命を澄明に伝える深度が目指されたものだ。

 また少年時代の回想を、当時の社会背景込みでフィクショナルに昇華する創作方法は、映画作家の大ネタの定番。『フェリーニのアマルコルド』(1974年)――『フェリーニのローマ』(1972年)よりこっちが適当だろう――辺りに倣えば、『キュアロンのROMA/ローマ』とでも呼べそうな本作は、映画史の太い幹にダイレクトに連なりやすいという意味で、先鋭性の度数より優等生的な堅牢さがやや上回る印象を筆者は持つ。あるいは先鋭性と古典性のバランスが抜群で、「オール5」以外の成績をつけようがない、といったところか。

 思えば今年のアカデミー賞における『ROMA/ローマ』の評価を占う際に「保守的なアカデミー会員にこの作品は受け入れ難いのでは?」といった論調のコメントがよく見られたが(Netflix絡みの件で言うとまさにその通りなのだが)、ただし作品の質的には、むしろ大御所や老年の識者が認めやすいオーセンティックな「名作」の表情を備えている。適度に高踏的なポジションで受容しやすい内実だからこそ、外国映画枠でありながら、作品賞部門でもオスカーに大手を掛けるところまで登り詰めたのではなかろうか。

 しかも本作が心憎いのは、極私的なノスタルジアを基調としながら、主題面などでしっかり現代性が担保されていることである。メキシコ先住民の家政婦を中心に、男たちに抑圧された女たちと子供たちが団結に至る物語。浮気に忙しい一家の医者の父親も、ヒロインを孕ませて逃げた武闘派デカチン青年のフェルミンも、大人の男は性欲優先の身勝手なクズ扱いで、人種や階層の問題も内包しながら何より無意識の性差別が糾弾されている。これって要は「反トランプ」のかたまりだ。アカデミー賞授賞式の際、フェルミン役のホルヘ・アントニオ・ゲレーロの入国ビザがなかなか降りず、出席が危ぶまれる騒ぎもあったが(結局Netflixやキュアロンがメキシコの米国大使館と丁寧に交渉して無事出席できた)、弱者の声を巧妙に搾取するバックラッシュに抗する政治性を装填していたからこそ、「反トランプ」という点では一致団結しているアカデミー賞のような場所でもずいぶん闘いやすくなったはずだ。

 もう少し『ROMA/ローマ』の表現面に踏み込んで整理するために、他の作家や系譜への補助線を引いてみたい。ざっと世に出ているレビューを眺めたところ、本作をイタリアのネオレアリズモの延長で捉える向きが結構多いようなのだが、しかし初期デ・シーカ的なドキュメンタルな写実性とはだいぶ似て非なるものではないか。キュアロンはもっと「形式主義」的で、題材に相応しいスタイルを厳密に規定するタイプ。先程フェリーニを引き合いに出したが、他に筆者は小津、キューブリック、アンゲロプロス、タルコフスキー、ブニュエルといった名前を異なる角度から連想し続けていた。また本稿の依頼をくれたリアルサウンド映画部編集のS青年はアピチャッポンを連想したらしい。確かに先程記したように、現実音のみで構成されたミニマムな音響設計と、オーガニックな映像空間の融合はアンビエントな陶酔性をもたらす。本編ではカリブ海沿岸のビーチで、さざ波がやがて大きくなる推移をドラマのクライマックスに当てているように、自然や事物のざわめきと呼応するスローシネマの一形態といった趣も強い。

 ちなみに筆者はラップトップで原稿を執筆中に、疲れたらNetflixのページを開き、ヘッドフォンでの『ROMA/ローマ』の部分的な視聴をボ~ッと何度も繰り返している。実はたまに目をつぶっている(笑)。オンラインで本作を味わうなら、モニターよりリスニングに集中して身を委ねるのが最も気持ちいいと思う(なお劇中のラジオや街中からはスペイン語や英語のポップスが色々聞こえてくるのだが、それらの歌曲を集めたアルバムが『ROMA/ローマ』のオリジナル・サウンドトラックとして発売されている。こちらもまた素晴らしい!)。

 さて、こうやって以上のように補助線を引くことで、『ROMA/ローマ』の作品的な位相がさらによく見えてきたことだろう。引き合いに出された名前からもわかるように、いわゆる「エンタメ色」が皆無である。主演のヤリッツァ・アパリシオはアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたが、もともとの職業は教師で、これが演技初挑戦。キュアロンが彼女を抜擢した主な理由は、モデルとなった乳母のリボに顔がよく似ていたから(!)というくらい、これは本質的に彼の個人映画なのだ。役者に新人や素人を起用し、カメラも監督自ら回
しているくらいだから、壮大な自主映画だと呼んでも差し支えない。

 しかも、これがあの『ゼロ・グラビティ』(2013年)を撮った監督の次の新作なのだから、もう興味深すぎて笑ってしまう。ハリウッド娯楽の最前線でアトラクション型の3D映画の黄金モデルをひとつ極めた男が、今度は振り子の反動のように、自らのフィルモグラフィーをシネマの側に引き戻した。キュアロンが母国メキシコで監督作を手掛けるのは『天国の口、終りの楽園。』(2001年)以来だし、「血の木曜日」の暴動シーンなどは、『トゥモロー・ワールド』(2006年)のワンカット撮影を改めて培養したものと言えるかもしれない。それにしても『ゼロ・グラビティ』からの振り切れ方は極端で、『ROMA/ロー
マ』ではぶっちゃけ地味なアートシネマに分類されかねない、ある種のストイシズムへと大胆に旋回した。

 この作風の振幅に関するキュアロン本人の意識はどうなのか。当初、彼自身はもちろん劇場公開を前提として『ROMA/ローマ』に着手したらしい。だが既成の配給会社が申し出た条件が悪く、結局Neflixに売り込んだ。この辺の経緯についてMovie Walkerから2019年2月20日付けの監督インタビュー記事(取材・文/久保田和馬)(参考:https://movie.walkerplus.com/news/article/180019/)を引かせてもらうと、「メキシコを舞台にしたスペイン語で白黒の作品だから、劇場公開が限定的なものになると最初からわかっていたんだ」と語っている。つまり「地味なアートシネマ」になるのは初期段階で自覚していたってことだ。しかし公開規模まであっけなく地味になるのは困るわけで、話をこう続ける。

「だけど大切なことは、なるべく多くの人にこの作品を観てもらうことだ。僕らがアプローチした時、Neflix側は作品の表面的な部分にフィルターをかけることなく、作品の内側にあるエモーショナルな価値を重視してくれたし、こうして世界中で劇場公開が叶ったということもNetflixと組んだおかげ。とにかく感謝しているよ」――。

 どうだろうか。ここにはものすごく端的な事実がある。要は大手映画会社ならハネちゃう地味で難しい作家的な企画も、Neflixなら引き受けますよ、ってことだ。冒険心や実験精神を失った既得権益を、新興勢力が脅かすという構図が明確に横たわっている。なんせあのキュアロンすら、企画を通す段階で苦労してしまうのだ。そりゃあ名だたる天下無双の超大物たち――コーエン兄弟もスコセッシもソダーバーグもNeflixに傾いていくだろう。

 ただしNeflixと組むデメリットも了解せねばならない。ウチは基本的に動画配信しかやりませんよ、という条件だ。そこで多くの監督はおのれの表現欲求と上映環境を天秤にかけるだろう。当たり前だが、僕の映画はぜひスマホのちっちゃい画面で観て欲しいんですよ~、なんてのたまう監督は誰もいない。映画の作り手にとって、あくまでもモニターはスクリーンの代替物である。お話の筋は極小サイズの画面で伝えられても、映像や音響、ディテールのこだわりなどは限りなく無に帰してしまう。

 とはいえ、ここがややこしいのだが、観る側の論理はまた別だ。様々な映画にアクセスできる気軽なツールとして配信は圧倒的に便利だし、コスパを考えると映画鑑賞はストリーミングサービスで充分というユーザーが実際増えている。この大まかな流れ自体は、『ROMA/ローマ』のロードショー公開に黒山の人だかりが群がるわけではないように、たとえ好評を博したNeflixオリジナル作品が劇場上映に展開しても、別に解消されることではない。

 作家の魂や思惑。業界の都合あるいは挑戦。批評家やマニアの特殊な欲望。大衆の消費傾向や時代のライフスタイル。こうした四方八方から来る何重ものズレがテクノロジーの発展と絡み合い、複雑なねじれや軋みを生じさせている。これが長い過渡期の様相を呈している映画状況の「現在」ってヤツなのだろう。

 今回の『ROMA/ローマ』劇場公開の件は、そんな「現在」の見取り図のかなりの部分をあぶり出してくれたようだ。その意味でも大変貴重だったと思う。ただし筆者がシンプルにいま思うことは、「ULTIRA上映」で『ROMA/ローマ』をもう一度観たいなあってことだけなのだが。

文=森直人(もり・なおと)