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センセーショナルで深い意義があるオムニバス映画に 『21世紀の女の子』が意味するもの

リアルサウンド

19/2/12(火) 10:00

「女の子だけが本当の映画を撮れる」

 こんな印象的なフレーズが飛び出すのは、80年代後半~90年代生まれの女性の映像作家たちが集結したオムニバス映画『21世紀の女の子』だ。この妄執的とも観念的ともいえる言葉が象徴する、異様な雰囲気を持った本作は一体何なのか? ここでは、その意味するものを考察していく。

参考:山戸結希監督×矢田部吉彦『21世紀の女の子』対談 日本における女性監督の現状と未来

 本作『21世紀の女の子』を主導しプロデュースしたのは、『おとぎ話みたい』(2013~4年)、『溺れるナイフ』(2016年)などで規格外の特異な才能を見せつけた、いまの日本映画界で最も才気走っている山戸結希監督だ。全15作の監督を務めたのは、全員が女性の若手監督である、山戸結希、井樫彩、枝優花、加藤綾佳、坂本ユカリ、首藤凜、竹内里紗、夏都愛未、東佳苗、ふくだももこ、松本花奈、安川有果、山中瑶子、金子由里奈、玉川桜。本作は、“自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること”を共通のテーマとした上で、彼女たちによって、それぞれ8分以内で自由に撮られた作品群だ。

 8分という時間で映像作品を撮るのは、かなり難しい。この構成に近かったのが、ジャン=リュック・ゴダール、ベルナルド・ベルトルッチ、チェン・カイコー、ヴィム・ヴェンダースら、各国の巨匠監督たちにそれぞれ10分の短編を撮らせて15本のオムニバスとした、『10ミニッツ・オールダー』(2002年)である。もちろんというか、そのなかでは、各々の監督の代表作に拮抗できるような作品が生まれ出ることはなかった。

 一般的なTVアニメの放映時間は、CMなどをカットすれば実質24分、1時間枠のドラマは53分ほど。そこから考えれば、この8分という時間が、いちからドラマを構築するには短すぎることが分かるだろう。さらに「帯に短し、たすきに長し」で、CM作品のようにワンアイディアのみでインパクトのある映像やシチュエーションを作り上げるだけでは、間が持たない時間でもある。あえて最も近いジャンルを挙げれば、ミュージックビデオの長さというところか。

 巨匠でも持て余す難しい仕事を、比較的キャリアの浅い監督たちが傑作にできるかというと、厳しいところがある。実際、本作に収められた15作品全てを「楽しんで観られる」と言うと嘘になってしまう。共感できたり引き込まれる作品もあるが、なかには舌っ足らずで理解し難いものや、印象に残りづらかったものもあった。

 逆に、それが複数監督によるオムニバス作品の楽しみの一つでもあるだろう。これは、いわば映画祭のコンペティション(競い合い)部門のミニチュアのようなものだ。本作を見終わった観客が、出来によってランキングをつけたり、「あれが良かった、いや、これは良くなかった」などと議論して盛り上がることもできる。とはいえ、それは当たり前といえば当たり前の話である。本作が真の凄さを見せるのは14番目の作品である、山戸結希監督の短編『離ればなれの花々へ』に至ってからである。

 ここで、唐田えりか、竹内ももこ、詩歩の3人によって演じられるのはドラマではなく、山戸監督によって綴られた“詩”と呼ぶにはあまりに扇動的で、世の“女の子”に決起を促す、まさしく“檄文”といえるような熱いメッセージを、お花畑のなかで叫ばせるというような内容だった。その狂熱の渦のなかで出てきたのが、「女の子だけが本当の映画を撮れる」という言葉だ。

 これは、アジテーションとも芸術運動ともいえよう。かつて前衛的なアーティストたちが「印象派」、「シュルレアリスム」、「ポップアート」など、新しいムーブメントが開花するとき、それをさらに前進させようという運動が芸術界にあった。山戸監督は、詩人のアンドレ・ブルトンが20世紀の新しい文化の出発として「シュルレアリスム宣言」を行ったように、旗振り役として映画における21世紀の「女の子宣言」を行ったのである。

 日本で制作された映画のなかで、女性監督によるものは全体の約3%といわれる。世界的にもそうだが、女性は映画のなかでは出演者やスタッフとしては使われてきたものの、映画監督として多くの作品を撮った女性は、きわめて少ない。

 マヤ・デレン、ジェーン・カンピオン、カトリーヌ・ブレイヤ、キャスリン・ビグロー、パティ・ジェンキンス、そしてもちろん山戸結希など、優れた監督の作品を数々観ると、その状況を生んだ原因は能力によるものではないことが分かる。障壁になっているのは、社会における女性差別の構造であり、業界のなかの偏見である。そこであえて辛い思いをしてまで、狭い門をくぐり闘おうとチャレンジする女性が減っていくのは自然なことかもしれない。山戸監督がやろうとしているのは、そんな現状を動かし、女性が男性と同じ程度に映画を撮っていける環境を作るということだろう。

 しかし、本作の監督たちは20代、30代の大人の女性だ。映画監督として若手とはいえ、なぜ本作は“女性”ではなく、あえて“女の子”を掲げるのだろうか。

 その点は、このように推察できる。ことに日本において、女性は封建的な価値観の犠牲になる場合が多い。子どもを産み育てるという役を引き受けることで、職によっては復帰が難しく、選択肢が限定されてしまうケースも少なくない。目一杯に学生時代を楽しもうとしているパワフルな女学生の姿を見かけると、この社会で自由に楽しめるのは今しかないという、ある種の諦念を彼女たちから逆説的に感じてしまうところがある。

 つまり封建的な社会において、自由な力を持っている女性は“女の子”だけなのだ。であれば、この社会で女性が自由でいるためには、どうすればいいのか。それは、“女の子”を卒業しなければいいのである。日本の多くの女性たちが、既存のシステムや男性優位の価値観から外れて、男性たちに望まれた役割を蹴っ飛ばして、いつまでも女の子であろうとし始めたならば、これはもう“革命”である。だから山戸監督は、お花畑の女の子たちを象徴として描いたのであろう。そして彼女たち女の子によって撮られる映画は、いままで優位性にあぐらをかいてきた男性には撮ることのできない真実が含まれるかもしれない。“本当の映画”を撮れるのは、その意味では女の子だけなのである。

 ここで、女性監督たちがそれぞれの感性で自由に撮った作品群が並べられたことに、突如として意味が発生する。短編の一つが、それほどの効果を発揮するという事実に驚きを隠せない。いまだかつて、これほどセンセーショナルで、それ自体に深い意義があるオムニバス映画があっただろうか。

 だが、そのような高邁な理想が、本作の全ての監督に共有され、きちんと足並みが揃っているわけではないというのも確かであろう。映画監督としての実力の違いはもとより、誰もが山戸監督のように、明確に大きなスケールでものごとを考えられるわけではない。今回、「ジェンダー」というゆるい共通のテーマがあったが、それを描くときに、既存の古い価値観にまだ振り回されている作品もあるように感じられた。“若さ”は、新しい世界を切り拓く鍵にもなるが、若さゆえに現状の矛盾を無批判に受け入れてしまう場合もある。しかし、そこを山戸監督が矯正してしまっては、女の子の自由な感性を踏みにじってしまうことになる。本作は、イデオロギーとして、ある種の保守性すらも内包しなければならないジレンマも存在するのだ。

 そのなかにあって、例えば東佳苗監督、モトーラ世理奈主演の『out of fashion』は、かつて憧れていた男性への幻滅から、自身の自立へとつなげていく成長物語になっていて、しっかりと「21世紀の女の子」像を希望を持って描けていると感じたし、竹内里紗監督、瀧内公美と朝倉あき主演の『Mirror』は、性的マイノリティでありながら、男性が求めるものを提供しなければ表現活動を続けていくことができないジレンマを持った女性の写真家の苦しみという、興味深いテーマが存在する作品で素晴らしかった。そして、批判などどこ吹く風という態度で撮られた、山中瑶子監督の、中華料理店の回転テーブルを使った異様な作品『回転てん子とどりーむ母ちゃん』も、常識を超越した力を持っていて、山戸監督に挑戦を仕掛けている。(小野寺系)