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『なつぞら』東洋動画のモデルとなる人々は? 日本の「漫画映画」の礎築いた東映動画のレジェンド

リアルサウンド

19/6/29(土) 6:00

 NHK連続テレビ小説『なつぞら』がアニメーター編に突入し、視聴率も上昇中だ。東洋動画に入社した奥原なつ(広瀬すず)を取り巻く人々に、モデルと思われる人物がいるのはよく知られている。ここでは作中のエピソードと絡めて解説していきたい。

【写真】東洋動画のメンバー

■予告編に顔を出すワンマン社長

 1956年、東洋動画の入社試験に臨んだなつの前に現れたのは、東洋映画社長・大杉満(角野卓造)。モデルとされているのは東映の社長、大川博。東映の事実上の創業者であり、東映動画(現・東映アニメーション)を設立したが、ワンマンな性格で知られた。大杉の口癖は「アータ」だが、これは大川の口癖「チミィ」から採られている。

 面接でなつが「社長の宣伝もすごい面白かったです」「あんなの初めて見ました」と口を滑らせたのは、長編アニメーション『白蛇姫』の予告のこと。実際に大川は『白蛇伝』(58年)の予告に自ら登場し、作品と東映動画のスタジオをPRしていた。また、大杉はなつの兄・咲太郎(岡田将生)が関わっていた演劇をプロレタリア演劇の流れを汲むものとして忌み嫌っていたが、大川も労働運動とは極めて相性が悪く、東映動画では労働組合とそれを潰そうとする大川との間で長期にわたる激しい労働争議が繰り広げられた。

 大杉が作画課に挨拶に来て、女性は結婚して子どもを産んだら退社することが前提のような話をしてなつが腹を立てる場面があるが、当時の東映動画には明らかな女性差別があり、女性スタッフの給与は低く抑えられ、入社時には「結婚したら退職します」と誓約書を書かされることもあった(朝ドラ『なつぞら』広瀬すずヒロインのモデル・奥山玲子さんの全て | FRIDAYデジタル)。逆に言えば、結婚したら退職しそうな女性ばかり採用していたとも言える。そのような会社に真っ向から反発したのが、奥原なつのモデルとされる奥山玲子だった。

■当時の日本アニメーション最高のスタッフ

 なつの才能を高く評価するアニメーターのリーダー、仲努(井浦新)のモデルとされているのは、東映動画発足当初から参加していた森康二。東映動画には発足当時から参加しており、多くの後進を指導した。動物キャラを得意としており、仲がなつに渡したセル画は、森が原画と演出を務めた短編『子うさぎものがたり』(54年)をモチーフにしている。また、なつが“薪割り”の動画に挑戦する場面があるが、これは森が実際に課題として出していた“杭打ち”がモデルになっている(「となりのトトロ」作画監督佐藤好春が朝ドラ「なつぞら」で薪割り原画を描いたわけ、聞いてきた – エキサイトニュース)。

 仲は女子社員に大人気だが、森も女子社員に人気だったらしい。ただし、後に痩せたが『白蛇伝』の制作当時は太っていたという(大塚康生『作画汗まみれ』文春ジブリ文庫)。髭を生やしていて一見近づき難いが、とても優しく、若手スタッフにも丁寧に仕事を教えていた(トークイベント「日本の長編アニメーションはここから始まった」が開催されました|練馬アニメーションサイト)。『わんぱく王子の大蛇退治』(63年)では日本初の作画監督に就任している。

 仲とともに原画、動画スタッフのまとめ役をしているのが井戸原昇(小手伸也)。彼のモデルとされているのが大工原章。『白蛇姫』はほぼ二人だけで原画を描いていたと語られていたが、実際に『白蛇伝』も森と大工原の二人で原画を担当した。その後も数多くの作品に作画監督として携わっている。

 森の原画は非常に繊細で演技もキメが細かったが、大工原の原画は大胆で荒々しかった。若いスタッフに仕事を任せるときも、森はなかなか任せない一方、大工原は思い切って自由にやらせていたという。

 仲に説得され、なつに再度試験の機会を与えた演出家の露木重彦(木下ほうか)。モデルとされているのは演出家の藪下泰司。東映動画の基盤となった日本動画(後に日動映画)に所属していた頃から演出を担当。『白蛇伝』をはじめ、東映動画初期の数々の長編アニメーション作品の演出を務めた。アニメーション制作の技術書の草分けだった『漫画映画とその技術』という書籍も著している。

 アニメーターの大塚康生は、森康二、大工原章、薮下泰司と、日動映画の社長で東映動画では取締役を務めた演出家・プロデューサーの山本善次郎について、「当時の日本アニメーション界の名実ともに最高のスタッフで、東映動画の技術的基礎を打ち立てた4人」と記している(前掲書)。

■手塚治虫が憧れていた美人アニメーター

 仕事に情熱を燃やし、なつにも厳しく接するセカンドの大沢麻子(貫地谷しほり)。愛称「マコ」。モデルとされているのはアニメーターの中村和子。こちらの愛称は「ワコ」だった。この頃から“美人アニメーター”と呼ばれており、守衛が「女優さんが間違えてスタジオへ入ってきてしまった」と勘違いしたというエピソードを持つ(真佐美ジュンブログ 2006年8月1日)。作中と同じく、『白蛇伝』ではセカンド(第2原画)と呼ばれるポジションに就いていた。

 麻子はなつとは違うベクトルの独特のファッションをしているが、当時の中村についての記事には「着るものはすべて自分のデザイン」と記されていた(『週刊漫画TIMES』59年12月2日号)。その後、長編作品『安寿と厨子王』(61年)の企画の窮屈さに嫌気がさしたアニメーターが一斉に東映動画を退社。中村は手塚治虫の誘いを受けて虫プロに移籍し、設立間もない虫プロを支えた。手塚の漫画『三つ目がとおる』のヒロイン、ワトさんのモデルになったとも言われている。手塚の娘、手塚るみ子は「ワコさん、うちの親父さんが憧れていた方と聞いてる」と明かしていた(ツイッター 2017年6月6日)。

 いつも朗らかで、なつに「アニメーションとは命を吹き込むことだよ」と教える人物、作画課のセカンド、下山克己(川島明)のモデルとされているのは大塚康生。下山は元警察官という異色の経歴を持つが、大塚は厚生省の麻薬取締事務所(麻薬Gメン)の補助職員をしていた。

 下山が麻子に「拳銃が撃ちたくて警官になったんでしょ?」と言われて「バンバーン」と拳銃を撃つふりで応えるが、大塚は実際に麻薬取締事務所で拳銃を磨く仕事をしており、後に『ルパン三世』(71年)に参加した際はワルサーP38を持つよう提案した。不二子が持つブローニング・ハースタル22は、大塚が麻薬事務所でいつも分解掃除していた拳銃だったという。なお、ルパン三世の愛車、フィアット500だったのは有名な話(選んだのは宮崎駿)。

 下山がなつの服装を毎日スケッチしていて、ついに同じ服を着てきたことを当てるエピソードがあるが、これは大塚がファッショナブルな奥山玲子の服装を毎日スケッチしていた実話に基づいている。大塚は奥山が同じ服を着てくる前にギブアップしてしまったそう。スケッチは同人誌『大塚康生のおもちゃ箱』に掲載されていた。

■スタジオジブリと宮崎駿を支えた2人の女性

 彩色担当のなつの隣席で、なつの親友になる森田桃代(伊原六花)、愛称「モモッチ」。モデルとされているのは、アニメーションの色彩設計を行ってきた保田道世だ。

 東映動画で宮崎駿、高畑勲と出会った保田は、その後、高畑が監督した『母をたずねて三千里』(76年)、宮崎が監督した『未来少年コナン』(78年)などの作品に仕上げ、色指定として携わり、『風の谷のナウシカ』(84年)以降は30年間にわたってスタジオジブリのほとんどの映画で色彩設計を担当した。『なつぞら』でアニメーション監修を行っている舘野仁美は、スタジオジブリで一緒に仕事をしていた保田を「仕上部のボス」と表現している(『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ』中央公論新社)。

 ところで『なつぞら』には自分の仕事が終わった男性のアニメーターが仕上げの作業を手伝いに来て、仕上げの女性たちと仲良く仕事をする場面があるが、実際にそこからロマンスに発展することも多かった。宮崎は「昔はアニメーターと仕上は仲良しだったのに。分業で、結婚の道はなくなってしまった」と振り返っていたという(前掲書)。

 なつと一緒に社内試験を受ける三村茜(渡辺麻友)のモデルは、アニメーターの大田朱美とされている。大田は『白蛇伝』を皮切りに、多くの長編作品に参加。65年に組合運動を通じて知り合った後輩にあたる宮崎駿と結婚した。

 その後、2人の子どもを出産。共働きでアニメーターとして活躍していたが、宮崎が東映動画を退社してAプロダクションに移籍したのを機に退職した。宮崎が会長を務める市民団体「淵の森の会」の安田敏男氏は、大田がアニメーターの仕事への未練について語っているのを聞いたことがあるという。2人の絵はどちらが描いたかわからないほど似ているそうだ(女性自身 2013年9月13日)。長きにわたって愛妻弁当を作り続け、宮崎の仕事を支えていたことも知られている。

■宮崎駿の盟友

 カチンコが下手な演出助手として登場した坂場一久(中川大志)。モデルとされているのは、『火垂るの墓』(88年)、『かぐや姫の物語』(13年)などを手がけた高畑勲監督だ。坂場は東京大学哲学科出身という設定だが、高畑は東京大学文学部仏文科出身である。

 坂場となつが『わんぱく牛若丸』の動画について言い争う場面があるが、本作のアニメーション時代考証をしているアニメーターの小田部羊一は、『わんぱく王子の大蛇退治』(63年)の際、高畑とこのような言い争いをしたことがあると打ち明けている(FRIDAY DIGITAL 6月10日)。坂場となつはアニメーションにおけるリアリティについて議論していたが、それはまさに高畑が一生をかけて追い求めたテーマだった。

 高畑と宮崎駿は東映動画で『太陽の王子 ホルスの大冒険』(68年)を作り上げ(高畑が演出、宮崎は場面設計・美術設計)、その後もスタジオジブリをともに設立するなど、さまざまな仕事をともにした盟友と言える関係。2人は奥山玲子の後輩にあたるが、奥山も2人の仕事ぶりから大きな影響を受けていた。奥山は『火垂るの墓』に参加した後はアニメーションから引退することを考えていたという(奥山玲子ホームページより)。

(大山くまお)

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