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『高嶺の花』峯田和伸はなぜ石原さとみを許したのか? 小日向文世が囁く“深い呪い”と考える

リアルサウンド

18/8/22(水) 6:00

 直人(峯田和伸)と同じく、一視聴者として、もも(石原さとみ)は直人のことを切り捨ててしまうのではないかという、“最悪の展開”を薄々感じ続けていたが、まさか本当にあんな終わりを迎えてしまうとは。

参考:石原さとみ、冷酷な計画を決行 『高嶺の花』裏切られた峯田和伸から見える“優しさと臆病さ”

 華道家のももと自転車屋の直人の格差恋愛を描いてきたドラマ『高嶺の花』(日本テレビ系)。愛を着実に深めてきた2人は第6話で結婚式を執り行うが、最終的にももは直人を置き去りにして、元恋人の拓真(三浦貴大)の手を取り式場を去ってしまう。

 1人の男を見つけてきて、ある程度の関係になるまで愛し、その男を切り捨てるというシナリオは、もとはと言えば市松(小日向文世)の言葉がきっかけであった。一時は、ももがその言葉通りに従わないかのように思われ、第4話では「私は華道を辞めます」と市松に告げる。しかし、市松の「お前には花を生けることしかできん」、「耳元で囁かれる色恋の言葉など、全て偽物と思い知ったはずだ」などといった一連の“呪いの言葉”は、悲しいかな、実際にももを翻弄していく。そんな市松の“呪い”の深さを見ていこう。

 ももの中で何かが動き始めたのは、第5話の終盤。ももの前に現れた拓真は、「僕を愛してほしい」と再びよりを戻そうと説得しに来た。この拓真の存在を上手く利用して、ももは直人に対する“罪悪感”を自身に植え付ける方向へといよいよ本格的に進んでいってしまう。“罪悪感”なしには、華道に邁進することはできない。まさしく市松の指示通りである。

 “罪悪感”をもって、自分を救済することができる。華道家としても、人間としても。果たして本当にそうだったのだろうか。直人を失うことになったことは言うまでもないが、ももを苦しめるものは色恋だけではない。もし市松が話していることが本当ならば、市松は家元には、ももの妹のなな(芳根京子)をつかせようと目論んでいる。ももを月島に残すのは、ななを正々堂々とした勝負で勝たせた上で家元にするため。その噛ませ犬としてももを呼び寄せておく必要があったのだとか。ももの実の父親は市松ではなく、運転手・高井(升毅)。市松は「家元の娘が、運転手の娘に劣るなどあってはならん」と考えている。恋で直人を失うばかりか華道の方でも、ももは市松の手の内で踊らされる。

 思えば、市松はいつも恐ろしいくらいの断定形で、自説を教え込ませる。正解は何であって、間違いはどのようなものであるのかといったことを圧倒的な威厳をもって説き伏せる。そうした教えに対して、ももは強い言葉で言い返すこともあるが、実際には、もものいかなる反論や解釈の余地も与えない。華道家である人間は“こうあらねばならない”という模範を叩き込ませ、もも自身も正しいありかたを模索し続け、結果自身を苦しめていった。

 反面、直人は全くといって良いくらいに、頭ごなしに押し付けることもなければ、真っ向から何かを否定することもしない。第1話で、“喜怒哀楽”の話をももたちがいる前でとうとうと語ったときや、素行不良の少年・宗太(舘秀々輝)に携帯で言葉を伝えるときでも、その言葉をあくまで、人生を良くするための“ヒント”として響かせようとする。“ヒント”に過ぎず、市松のような“教義”ではないのだ。その言葉を受けて、ももや宗太は自分なりに頭で考え、自分なりの解釈を与える。こうして初めて、“こういう考え方もできるのね”と思えるようになっていく(はず)。直人はももに対して絶対に“正解”を授けないし、“正解”を追求させることもない。

 例えば、第4話。自分は浮気をしないと断言した直人。その理由として、「相手にされたら嫌なことをどうして自分はできます? 愛しているのに」と言う。その時のももの表情は、一瞬何かに動かされたかのように見えた。ところが、直人は、この「相手にされたら嫌なことはするべきでない」という考えを、ももに押し付けるようなことは決してしなかった。むしろ、ももの残忍な計画を、ご丁寧に、一度出した婚姻届を役所から戻してまでして肯定したのだ。直人が華道の世界についてほとんど知識を持たないからというのもあるかもしれない。ただ、このエピソードに限らず、自説はあくまで自説であって、直人にできることはあくまで、「こんな風に自分は考えます。それをどう受け止め、考えるかはあなた次第だ」とでも言うかのような、一つの提案にとどまる。解釈の余地を残し、判断を委ねるまでがするべきことだという、この直人のスタンスこそが、市松の教義性との違いとして現れる。

 さて、この直人の緩やかなスタンスと、市松の呪縛的なスタンスの違いはどこからくるものなのか。それは、市松はできるだけ物事を“拒絶”しにかかるのに対し、直人は基本的に “受容”することにある。市松は、第2話では愛をお金に喩えたうえで、「芸術家に愛などいらん」と言い切って見せ、第3話では「才能ある華道家なら、色恋などという俗なものに溺れるな」と喝破した。必要のないものは、極力排除するべきだと訴える。市松は、失ったもう1人の自分を取り戻すようにと言う。ただ、それとはまた別の話なのであろうが、ももが自分自身に目を向けて、受容させることに関しては、結果としてそれを阻んでいるように見えなくもない。

 ただ、直人は違う。ももの良いところも、悪いところもひっくるめて全てを受け入れる。常に対岸から人を眺めて、その中から良い面を見つけて評価する。第1話の“喜怒哀楽”の話の中で、直人は誰のことも憎まないももを「いい女」だと褒めちぎった。本人がネガティブに捉えていることであっても、力づくでそれを引きはがそうとはしないで、まずそんな一面を“受容”しにかかる。これこそが、本作の中でにじみ出る直人の“優しさ”を根拠づけるものである。先に述べたように、ももの裏切りさえをも受け入れ、そしてそれに許しを与える。そうすることが人のためになるのなら、“受容”する価値があると。

 受容は拒絶を乗り越える。このことを証明する事例を、私たちはすでに知っている。それは、宗太の物語である。本作の重要なサイドストーリーである、この宗太の成長物語は、第6話では一つ大きな見どころがあった。直人に勧められて始めた、“日本一周の旅”の途中で出会ったイルカ(博多華丸)とのやり取りの中でそれは見受けられる。大きな持病を抱えながらも、手術を受けずに、彼が住まう山中で死ぬと決めたイルカ。そんなイルカに対して、宗太は激高する。「イルカさんは 僕の味方だ! だったらまだ行かない。この野郎! クソが! 僕の味方なら、僕もイルカさんの味方だ! バカじゃね? 1人でいるの怖いくせに強がって! 一緒じゃんか!」とまくし立てるのだ。

 あれだけ人との関りを拒絶してきた宗太が、ここにきて大きな変化を迎えた。イルカを受容しはじめたのだ。いや、正確に言えば、自分が目をそらし続けた、“拒絶し続ける”自分を受容し始めたのだ。その結果、何をすべきか、どうあるべきかが見えてくる。相変わらず言葉遣いは荒いものの、イルカという人間を“味方”として受け入れることは、“拒絶”克服の大きな一歩である。はじめは鬱陶しく思っていた、直人からのメール越しの言葉が、宗太の中で着実に蓄積していき、それらを宗太自身が自分なりに受け止めて行動に起こしたのだ。直人の言葉にはそんなことを可能にするパワーがある。

 だからこそ、ももにだってきっとできたはずなのだ。一つのあるべき姿としての正解をいきなり求めようとせずに、まずは自分をあるがままに受容する。そして、その結果ほしいと思うものは、何だって自分の中に受け入れていく。これこそが、ひょっとすると市松の“呪い”を解く鍵であったのかもしない。ももは第6話になっても、いまだに自分が置かれた状況を、もどかしく思い、イライラを爆発させる。今自分が苦しめられているのは、自分自身に原因があるとでもいうかのように市松から呪いをかけられ、大きな十字架を背負いこんでしまっている。直人は、ももを“他者を憎まない人”と評したが、作中を通じて、何度も見せるももの苛立ちは、まるで自分自身に向けた憎しみのように見えなくもない。抑圧された憎しみは必ずどこかに、はけ口を見つけてはき出される。筆者は門外漢にして、華道の世界のことを詳しく知らないので一概には言えないが、果たして本当に直人を切る判断は正しかったのか、考えさせられるところである。(國重駿平)

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