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『えいがのおそ松さん』には何が描かれていたのか? 自己分析を反映させたファンサービス

リアルサウンド

19/3/23(土) 10:00

 2015年から、1期、2期にわたって放送されたTVアニメ『おそ松さん』。赤塚不二夫の生誕80周年を記念して作られた、『おそ松くん』のアニメ化作品として初の深夜放送用となったアニメーションだが、これが予想を超えて、多くの熱狂的なファンを生むことになった。放送開始当時はここまで当たるとは思われてなかったため、1期放送終了後に膨大な数のグッズが販売されたのも記憶に新しい。そんな当時から長編映画化の噂が立っていたが、企画は2期終了後の公開となった。

参考:『おそ松さん』はTVアニメ復活の“のろし”となるか? 社会現象となった理由を徹底解剖

 正直な話、様々な革新性が見られていた1期に対し、2期の内容は幾分トーンダウン。第2のブームには至らなかったように思える。その後に公開を迎えてしまった本作の内容は、一体どうだったのだろうか。ここでは、本作『えいがのおそ松さん』に至るまでの状況や、映画全体を通して何が描かれていたのかを考えていきたい。

 TVアニメ『銀魂』シリーズの藤田陽一監督と、ラジオ番組のハガキ職人を経て、『エンタの神様』などの構成や、『銀魂゜』の脚本を手がけた松原秀による脚本による『おそ松さん』第1期は、革新的な試みがいくつも見られた作品だった。

 女性のアニメファンに人気があるイケボ(イケメンボイス)声優を六つ子に配役するなど、女子向け作品としてヒットさせようという意図を感じる『おそ松さん』。実際に、ボーイズラブを嗜好する、いわゆる「腐女子」と呼ばれるファンや、男同士の性格の違いや関係性に魅力を感じる女子などがブームを牽引したことからもその意図は明らかだろう。

 だが、そういう一面について、外側から批評的に眺める視点が作品のなかに備わっていることが、『おそ松さん』の特徴である。おそ松たち六つ子を、少女マンガ『花より男子』になぞらえ、学園のアイドル“F6(エフシックス)”としてイケメン風に描き、ヒロインのトト子が思わず、文字通り“沼に落ちる”シーンも表現された。ちなみに、沼に落ちるというのは、アニメキャラクターやアイドルなどにはまり抜け出せなくなるというスラングである。

 『おそ松さん』はこのように、自己分析的、メタフィジックな表現を多用しながら、ときにファンの姿を作中でカリカチュアライズすることで、なかば揶揄しているようにも感じられてしまう。だが、意外にそれに対する反発は起こらなかった。それは例えば「腐女子」という言葉自体に自虐的な要素が含まれるように、男同士の関係性を見つめる女子の心理というものが、すでにある程度ポップ化されていたからであろう。そして、作中にある扇情的部分を覆い隠すのでなく、むしろ直接的に表現してしまうところに一種の気持ちの良さがあり、現代的な感覚にマッチしていたといえよう。

 もちろん、『おそ松さん』はそれだけでなく、赤塚不二夫後期の作品を再現するような、破壊的なギャグの連発や、TVのバラエティー番組やお笑い番組に連なる要素を入れ、さらには6つ子全員が大人になってもニートで実家暮らし、おまけに童貞という悪夢のような状況を描くことで、二極化が進み負け組が増え続けている現代社会とのつながりを持たせることで、いわゆるオタクカルチャーの文脈だけにとどまらない世界観を作り上げている。

 回が進むにつれ、徐々にギャグのレベルが上がっていき、アヴァンギャルドな結末によって好評のうちに終了した1期と比較して、とりわけギャグの内容がトーンダウンしてしまった2期では、何が起こったのだろうか。制作を急ぎすぎたことでの準備不足など、内部事情が関係しているところもありそうだが、ここではとくに脚本面で一度限界を迎えてしまったということが考えられる。

 “限界が来る”、よくギャグ漫画家にこの現象が起こるといわれる。ストーリー漫画に比べ、ギャグを主体にした漫画では、エスカレートしていく内容をこれ以上創造できなかったり、ギャグの引き出しが尽きてしまうという事態に陥りがちだ。その場合どうしても、すでに出たネタを繰り返してしまったり、考えつくされていないネタを無理に使ってしまうことになる。もちろん脚本を手がける人員は一人だけではないが、例えば『ザ・シンプソンズ』などアメリカのコメディーアニメ・シリーズでは、より大人数の脚本チームを組織し、議論し合いながら作るため、質の高いギャグの量を維持することができることを考えると、ここでは体制としての問題が表面化してしまったように思える。

 さて、本作『えいがのおそ松さん』では、ここからどんな手を打ったのか。本作に限らず、TVシリーズの映画版の脚本を書くというのは、なかなか難しいところがある。観客の動員を考えなければならないため、一部のファンにしか理解しづらいような、ぶっ飛んだ内容にはしづらい。なので、どうしても人気のあるキャラクターの見せ場を作ることに終始してしまうような無難なところへ落ち着けがちだ。それは『ザ・シンプソンズ』劇場版も同様だ。その意味で本作は、もう一歩進んで一つの主軸を通したものにしていると感じられる。

 まず描かれるのは、高校の同窓会だ。ニートで実家暮らしの6つ子たちは、楽しい思いをしたり、あわよくばかわいいクラスメートとの出会いがあるのではと、のこのこと出席してしまう。だがそんなことはなく、それぞれ社会人となった同級生たちとの再会は、厳しい現実との直面を意味していた。格差社会が深刻化するなか、この“同窓会問題”は悩ましい。ついつい、体裁を気にするトド松やカラ松らは「就職している」と嘘をついてしまう。彼らが直面する現実は、我々の住む社会ではむしろ日常的に起きているリアルそのものである。

 だが、本作はそこから一気に幻想的な物語となる。彼らが酔いつぶれて翌日目覚めると、そこは18歳の自分たちが生活する、高校時代の思い出の世界だった。登場人物たちが異様な日常に迷い込むという意味で、本作は80年代のTVアニメ『うる星やつら』の映画版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)に近い。この作品が、高校の文化祭前日という夢の世界を舞台としていたように、本作もまた、あるキャラクターによる高校の卒業式にまつわる思い出が舞台となる。そこで6つ子たちは青春時代の自分たちを目の当たりにすることになる。

 「誰の思い出なのか?」という謎が分かったとき、本作の物語からは、全く別の意味が立ち上がってくることになる。その真相は、そもそもの『おそ松さん』ブームの理由とは何だったのかという、やはり自己分析的な視点を感じるものになっている。本作を観にくる観客とは、どんな層だろうか。ブームが過ぎ去ったいま、駆けつけるのは、やはり当時からのコアな女性ファンが中心となるだろう。おそらく本作の企画の時点でターゲットはそこに絞られている。そして破壊的なギャグよりも青春ドラマと関係性の描写を優先させながら、おそ松たちと女性ファンとを対話させ、ファンへの感謝を伝えるようなところへ行き着くことになる。

 そういう意味で、本作はTVシリーズの魅力をある程度反映させながらも、本質的なところではファンサービスに特化した作品だと結論づけて良いはずだ。しかし、これがよくあるファンサービスと違うのは、そこにやはり自己分析を反映させているところであろう。そして迎えることになる「卒業」。それは、むしろ皮肉にも思えるほどに直接的である。この結末を、メッセージを、当事者であるファンの多くがどう受け止めるのか。それが今回の劇場版が成功だったかどうかを決めるはずだ。(小野寺系)

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