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ぴあ

村上春樹作品の映画化のポイントは“会話”にあり 『ハナレイ・ベイ』はもっとも成功した作品に?

リアルサウンド

18/10/29(月) 12:00

 10月19日、村上春樹原作の映画化である『ハナレイ・ベイ』が封切りとなった。これまでにもいくつかの村上作品が映画化されてきたが、今回はそれらを取り上げながら、村上春樹作品と映画の関係について考えてみたい。日本国内のみならず、世界的に影響力を持つ小説家である村上春樹。人気作家であるがゆえに期待も大きく、映画化に対する評価もシビアになりがちだ。来年2月には、『納屋を焼く』の映画化『バーニング 劇場版』も公開されるが、村上作品の映画化にはどのようなハードルがあるのだろうか。

参考:小説の“翻案”、もしくは映画としての“再構築”? 『ハナレイ・ベイ』が描く「距離」と「触れる」

 村上春樹作品の映画化でもっとも困難になるのは、会話をどのように再現するかだろう。村上作品における会話は、あくまで文字で読む会話である。文章として読んだ場合のリズム感やおもしろさはあるが、実際にあのような話し方をする人がいれば、相当奇妙なものになる。それは作者である村上本人が認めているところだ。「口に出されると僕の台詞ってリアルじゃないから。あれは読んでいると口語的に思えるけれど徹底的に文章的な表現なんです。文章としてはリアルです。でも実際声にすると馬鹿みたいになっちゃうんです」(「僕が翻訳を始める場所」)。だからこそ、映画化において会話は特に注意を払う必要があるはずだ。

 とはいえ、村上作品における会話はとても印象的であり、観客が村上作品らしさを感じるポイントでもあるため、映画に取り入れたいと考えるのは当然だ。村上作品に特有の会話・台詞まわしをどう処理するかが、映画化においては重要なポイントになるように思う。今回は、小説と映画における台詞の違いという観点から村上作品の映画化について考えていくが、映画版『風の歌を聴け』(’81)については、当時の一般的な言葉遣いと劇中の台詞がどれだけ乖離しているのか、判断がつきにくい部分があるため、言及は控えたい(70年代、80年代の映像を見ると、当時の人たちの会話は、現代とずいぶん異なっていることが多い。昔はこんな話し方をしていたのか、と驚くこともよくある。80年代初頭の日本人にとって、この映画の台詞まわしはどう響いていたのか、想像するのはやや難しい)。この稿では、市川準が監督した『トニー滝谷』(’05)以降の作品について考えてみたい。

 映画『トニー滝谷』では、会話は自然な言葉に置き換えられている。登場人物にとって不自然さがない台詞を工夫した形跡が見て取れる。一方『トニー滝谷』がユニークなのは、登場人物が演技の途中で突如ナレーションを始めるという意外なアイデアだ(たとえば劇中、「寒くなるといけないから、コートも持っていきなさい、とトニー滝谷は言った」というナレーションのような台詞を、演者である宮沢りえにカメラの前で言わせている)。これは村上作品の会話や文体の特徴を残しつつ、映画として成立させるための意表をついた手法なのだが、どこか演劇的な味わいを作品に加味していておもしろい。いかに村上作品を映像化するか、知恵を絞ったのだという印象を受けた。撮影の美しさもあいまって、公開当時も好評だったと記憶している。

 『神の子どもたちはみな踊る』(’10)は、米監督ロバート・ログバルが手がけ、ロサンゼルスを舞台にした物語に置き換えられた作品だ。台詞は全編英語だが、まったく違和感はない。かつて村上は、デビュー作『風の歌を聴け』を書く際、まず英語で書き進め、その後日本語に訳すという方法を取ったと説明している(『職業としての小説家』)。翻訳小説の文体にも影響を受けた台詞は、英語に訳しやすい性質があるだろう。また村上作品は、日本の文化や風土と密接に結びついた物語ではないため、場所を海外に置き換えても成立するのが特徴だ(世界的な読者を獲得している理由もそこにある)。こうした要素もあり、『神の子どもたちはみな踊る』は作品のムードをうまく解釈し、場所をアメリカに移しながら映画化に成功した作品だと言える。

 一方、トラン・アン・ユンが監督した『ノルウェイの森』(’10)は、村上作品の映画化では特異である。小説の会話をかなり忠実に台詞として再現した映画版『ノルウェイの森』は、村上が危惧した「口に出されるとリアルじゃない台詞」という問題に突き当たってしまっているように思えてならない。誕生日にプレゼントを渡す場面で、「開けていい?」「もちろん」と会話する男女を見ながら、妙なむずかゆさを感じてしまう。文章として読む会話は別物なのだ、という村上の指摘はおそらく正しい。個人的には、日本語の感覚がどうしてもしっくり来ないままであった。映像面では、大学構内を歩く主人公が学生運動の人の波に巻き込まれていくシーンなど、印象に残るショットも多い作品なだけに、なおさら会話で生じる独特のむずがゆさが気になってしまうフィルムであった。

 また、ヒッチコックも『映画術』の中で述べているが、映画化に適しているのは短編小説だ。長編の情報量は映画のフォーマットに収まりきらない。『トニー滝谷』『神の子どもたちはみな踊る』『ハナレイ・ベイ』『納屋を焼く』はどれも短編であり、ゆえにコンパクトで的を得た作品となっている。長編小説は、映画化に適した物語の情報量を超えてしまっているのではないか。村上は長編をもっとも重要視する作家だが、映画化という観点からすれば、短編の方がより現実的であると思う。

 こうして考えると、『ハナレイ・ベイ』は映画化に向いた小説である。原作に出てくる若者の会話はかなりくだけていて、実際の話し言葉に近い。「だめなら浜で野宿すればいいしとか思って」「俺たちあまり金ないし」(原作内の台詞)と話す少年たちの台詞は日常的であり、映画化した際にもごく自然に感じられた。見る前から、先述した、台詞の違和感という問題は起こらないだろうという予想があった。

 今回映画化された『ハナレイ・ベイ』は、村上作品の映像化のなかではもっとも成功した部類に入るフィルムであるように思う。さまざまな時間帯のハワイを丁寧に写したショットはどれも美しい。音楽を使用せず静かなトーンが続く映画は、息子の死を経験する母親の悲しみを、決してドラマティックになりすぎずに伝えている。現地の警察官やホテルの従業員などを演じる人びとの顔つきのよさにも驚く。また、主人公役の吉田羊が読書をする場面はどれもいい。喪の途中にある母親の姿。浜辺に椅子を置いて読書する彼女をとらえるカメラは、死のあっけなさを効果的に伝えていたように思える。特別に何かが起こる物語ではない『ハナレイ・ベイ』だが(もっともショッキングな息子の死が冒頭で語られ、それ以上の事件は起こらない)、映画全体の静けさは、原作小説のエッセンスを抽出できていたのではないか。

 あらためて村上作品の映像化について考えてみると、どの作品も真摯に撮られている印象を受けた。どの映画作家も、原作のニュアンスを保持しつつ、映像化する際のアイデアを加えている。安易な映像化がなく、原作と向き合っている印象を持つ。『納屋を焼く』の映画化『バーニング 劇場版』は韓国の人気監督イ・チャンドンのフィルムである。どのような作品になるのか、いまから楽しみでならない。(文=伊藤聡)

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