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いま、最高の一本に出会える

『少女邂逅』『志乃ちゃんは~』『カランコエの花』……拡大する“ガール・ミーツ・ガール”映画

リアルサウンド

19/1/8(火) 10:00

 女の子と女の子が出会い、心を通わせたのち、あることを契機に別れてしまう……。青春映画の定型としての「ボーイ・ミーツ・ガール」(あるいは「ガール・ミーツ・ボーイ」)とは対照的に、『少女邂逅』からはじまり、『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』、『カランコエの花』と、2018年は「少女が少女に出会う」ことで物語が動き出す「ガール・ミーツ・ガール」の青春映画が注目を浴びていた。本稿では、代表的な作品を振り返りながら、なぜこの年にそうした作品が集中し、注目を浴びたのか考察してみたい。

参考:<a href=”https://www.realsound.jp/movie/2019/01/post-300435.html”>菊地成孔の『アリー/ スター誕生』評:完璧さのインフレーション</a>

・『少女邂逅』
 まずは、1994年生まれの新鋭・枝優花監督による初長編映画『少女邂逅』。その題名からもわかるように「少女と少女の出会い」をドラマティックかつトラジックに描いた青春映画だ。本作は『MOOSIC LAB 2017』にて初披露され、観客賞を受賞。さらに、バルセロナ・アジア映画祭で最優秀監督賞を受賞するなど、日本国外でも評価されている。

 少女と少女は、出会うべくして出会う運命にあった。主人公の小原ミユリ(穂志もえか)は、いじめをきっかけに声が出なくなってしまった18歳の少女。山の中で拾った蚕を「紬(ツムギ)」と名付けて大切に育てることで、なんとかこの世界に生をつなぎとめている。しかしある日、いじめっ子に蚕の存在がバレて、山の中に捨てられてしまう。唯一の生きがいを失い、またミユリ自体もスカートを捲り上げられて蚕のような様相になってしまったところに、富田紬(モトーラ世里奈)という名の少女が、かすかに射す光の方からミユリを助けにやってくる。こうして彼女たちは邂逅を果たす。

 この映画の重要なモチーフである「蚕(カイコ)」は、監督も公にしているように「邂逅(カイコウ)」につながる言葉遊びだ。また、若さや見た目などの表面的なものに価値を置かれ、内面を蔑ろにされることが多い「少女」の姿が「蚕」に重ねられている。

 物語の中盤で、「蚕は、互いが近づきすぎると糸が絡まってしまうため、部屋を分けて育てる必要がある」と生物の教師が言う。この言葉が映画のアクセントになっており、同じ部屋(=教室)の中にいながら、互いに、真に分かり合うことができない学生たちの姿を暗喩しているのだ。そんな中で、蚕のような姿になったミユリを紬が助ける冒頭のガール・ミーツ・ガールや、自転車の二人乗り、電話ボックスでの雨宿りなどに顕著なように、紬だけは、その「壁」を飛び越える存在として描かれていく。そしてミユリは、その存在に驚き、恋をし、生きる意味を与えられていくのだが、前触れのない「出会い」の場面と同じく「別れ」も突然、訪れてしまう。互いにわかりあえていたはずが、実は見えていなかった紬の裏側を知るラストシーン。それは内面の見えない「蚕/少女」というイメージと重なる。

 映画評論家のローラ・マルヴィが、ハリウッド映画における「男性視点によって女性を性的対象化する視線」に対して批判的に名づけた<male gaze>という言葉がある。雑誌『i-D JAPAN No.6』では、その言葉の対義語として<female gaze>という造語を提示し、女性クリエイターのみで一冊のファッション・カルチャー雑誌を作り上げる特集が組まれていた。(※1)この言葉に明確な定義付けはされていないが、外見を性的対象化した<male gaze>との対比だとすると、それは「内面へ向けたまなざし」のことなのかもしれない。『少女邂逅』は、外側を重要視される「蚕/少女」の内面にまなざしを向けようとしている。

・『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』
 『少女邂逅』の公開からわずか2週間後に上映を開始した湯浅弘章監督作『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』。主人公の大島志乃(南沙良)は人前でうまく言葉が話せないことに悩む少女。映画は高校の入学式からはじまり、自己紹介で「自分の名前が言えない」彼女の姿が、鮮明に映し出される。高校生活の最初から躓いてしまった彼女の転機となるのはやはり、もうひとりの「少女」、岡崎加代(蒔田彩珠)との出会い。志乃と同じくいつもひとりで行動していて、ミュージシャンを目指しているが、音痴なことに悩んでいるという、これもまたある種の“生きづらさ”を背負った女の子だ。

 互いに共感するものがあったのか、仲を深めていく志乃と加代。心を通わせるうちに、志乃は、加代の前でならスラスラと言葉を発することができるようになる。その後、志乃が抜群の美声を持っていることを知り、文化祭での発表を目標にメロディーを加代、歌を志乃が担当する音楽ユニットを組むことに。人前で言葉が話せない志乃と、音痴な加代。彼女たちはひとりでいるとうまく“音を発する”ことができなかったが、2人になることで、徐々に美しい旋律を奏でることができるようになった。

 試行錯誤しながらも文化祭で彼女たちが学校中にその才能を認められる──。微笑ましい前半を見ているとそういった結末を思い浮かべてしまうのだけれど、後半はあることをきっかけにユニットが解散してしまい、文化祭も加代だけでステージに立つことになる。『少女邂逅』と同じく「少女たちの別れ」を描いている本作は、見る人によっては悲劇的なラストだと感じるかもしれない。

 しかし、“志乃ちゃん”は決して人生に絶望していない。それは体育館で「自分の名前を叫ぶ」クライマックスのシーンにしっかりと現れている。文化祭で、少し音を外してもひとりで懸命に「魔法はいらない」というオリジナルソングを歌いあげた加代も含め、彼女たちは「2人でいると」音になった時代を経て、「ひとりでも」音を出せるよう、成長を遂げたのだ。

・『カランコエの花』
 本作の公開日は、『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』と同日だった。互いに共鳴し合うこの3作品がほとんど同時期に公開されていたのは果たして偶然だろうか。中川駿監督による39分の短編映画『カランコエの花』は、当初、新宿K’s cinemaにて1週間限定ロードショーだった予定が、SNSなどの口コミによって大幅に上映館を拡大し、現在もまだ各地で上映が控えている状況だ。

 とある高校のクラスで唐突に「LGBTについて」の授業が実施される物語の冒頭。他のクラスではその授業が行われていなかったことで、ひとりの男子学生が、「うちのクラスにいるんじゃないか?」と疑問を浮かべ、クラス内に波紋が広がっていく。

 この映画では、男子学生のこの疑問に顕著なように、男の子はそうした「否定」や「からかい」が友情関係構築の主な手段となり、人の内面までうまく踏み込めない。一方で女の子たちは、嘘も含まれた「肯定」や「共感」で友情関係を構築するが、こちらも本心にはたどり着くことができない。ここだけを抜き出すとかなり一面的ではあるが、細かな描写で人物の余白や多様性を浮き彫りにしながら、そうした中高生の人間関係あるあるを織りまぜていく。

 「うまく内面に踏み込めない」というのは、『カランコエの花』だけでなく「ガール・ミーツ・ガール」作品に通底している問題意識のように感じられる。私たちは、そうした「内面に踏み込めない(人たちの)物語」が迎える行く末を知ることで、自らを見つめ直すことになる。

 この映画の特徴もやはり、悲劇的にすら映る「別れ」を描いたラストシーンではないだろうか。「桜(有佐)が月乃(今田美桜)に恋をしていること」と「桜は教室にはいない」という事実だけが残るあの場面。鑑賞者に「結末のその後」を委ねることで、“目に見える”外側だけではなく、“見ようとしないと見えてこない”登場人物たちの内面に強く迫ることを促している。

 以上、ストーリーは各々に個性がありながら、どこか共振するものを感じる3つの「ガール・ミーツ・ガール」映画を紹介した。ここでは詳しく触れることができなかったが、アニメーション映画の『リズと青い鳥』や2017年の菊地健雄監督作『ハローグッバイ』など、同時代性の高い作品は他にもいくつか公開されている。

 青春時代には「出会い」と「別れ」がつきもので、その忙しない時代を経て私たちは大人へと成長していく。これらの映画はその儚い時間の中に生きる、特に外側を重視されやすい「少女」に深いまなざしを向けることで、観客に新たな視線を提示している。上映期間の延長や上映館の拡大という目に見えるヒットは、そうした物語が実際に観客に届いていることを証明するものだ。『カメラを止めるな!』を象徴として国内のインディペンデント映画が活発だった2018年。2019年もその動向に目が離せない。

※1 世界文化社『i-D JAPAN No.6』P22より

(c)押見修造/太田出版 (c)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

(文=原航平)

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