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柴田聡子の音楽に宿る“気分”の存在 『愛の休日』と『ワンコロメーター』から紐解く

リアルサウンド

18/12/13(木) 8:00

 2018年の年の瀬にこんな書き出しで始めるのもなんだが、1年前の2017年、自分にとって、とても重要な意味を持った作品として記憶されているのが、柴田聡子のアルバム『愛の休日』だった。このアルバムによって、僕は自分自身の内側に宿る「気分」というものの存在を肯定的に見ることができるようになった。昨日の自分が考えていたことと、今日の自分が考えていることが違っても全然いいし、なんなら、ある物事に対して、1時間前の自分と今の自分が出す答えが全然違っても、それはとても自然なことなんだ、と思えるようになったのだ。「そんなこと当たり前じゃないか」と言われればそうなのだが、その頃の自分にとって、それはとても「いけないこと」のように思えていたのだと思う。何かひとつ、絶対的な答えを自分の中に持って、それを世の中に提示できなければいけないのではないか?――そんな思いに捕らわれていたのかもしれない。

「音楽表現として伝える」ことに意識的になった『愛の休日』

 しかしながら、弾き語り、バンド、打ち込みと1曲毎にコロコロと音楽的話法を変え、さらに、音自体の質感すら変えながら、生活や筋肉や感情や記憶やロマンの様々なニュアンスを見事に音楽に定着させた『愛の休日』を聴いて、僕は、自分の中から生まれる「気分」というものに、もう少しちゃんと向き合ってみようと思った。そのことによって僕は、「気分はコロコロと変わっていく。でも、せっかくなら、その気分を抱くことができた一瞬一瞬を大事にした方がいいな」という、ポジティブな決意のようなものを、自分の中に芽生えさせることができたような気もしている。そして同時に、自分の個人的な「気分」に敏感になることが、ときとして時代や社会の全体的な「気分」と対立するということも、なんとなく受け入れるようになっていった。

 「気分」という書き方をしているせいで、柴田の曲そのものがとても曖昧なものだと捉えられてしまうかもしれないが、そういうことではない。むしろ『愛の休日』において彼女が作り上げた楽曲たちは、とても力強い具体性を持って響いていた。それまでの彼女の作品では、ときとして「音楽として」というよりも「文学として」の具体性が強い印象を持たせるものもあったが、『愛の休日』はあくまでも「音楽表現として伝える」ことに意識的になったアルバムのようにも思えた。リリース時のインタビューなどを振り返ると、それはアルバムのうち数曲でプロデュースに参加した岸田繁(くるり)との出会いなども影響として大きかったようだった。

 とにかく、『愛の休日』には過度な物語性やセンチメンタリズムが入る余地はないように思えた。むしろ『愛の休日』を特別なアルバムたらしめていたのは、装飾としてのエモーションやストリーテリング、あるいは過度なセンチメンタリズムを取り除いたうえで、それでも、壮大な人生賛歌を聴いたときのようなカタルシスに辿り着いていたからなのだと僕は思っている。「あなたは生きています! 私も生きています!」という、ともすれば「メッセージ」とも言えてしまいそうなものを、(妄想やロマンはあれど)嘘や装飾的な演出はなしで、『愛の休日』における柴田聡子は伝え切っている感じがした。問答無用で聴き手に涙を流させるような安直なカタルシスを周到に回避しながら、あらゆる喜怒哀楽をひっくるめた「生きていること」の確かさを、彼女は見事に表現していたのだ。個人的な体感で言えば、それは、ゆらゆら帝国の音楽を聴いたときに感じるものに近いような気もした。ゆらゆら帝国のようなサイケデリアは、柴田聡子にはないけれども。

「ワンコロメーター」でまた一歩進んだ音楽の具体化

 そして今年の11月、『愛の休日』以来の柴田聡子の音源『ワンコロメーター』が届けられた。表題曲の「ワンコロメーター」は本当に変な曲で、ピシッピシッと刻まれループするビートと循環するフルートのメロディが印象的なトラックの上で、柴田聡子が〈ワンコロメーター ワンコロメーター おしえてワンコロメーター〉と歌っている。最初に聴いたときは、石野卓球がやっていた電気グルーヴの前身ユニット・人生の「オールナイトロング」を思い出した。チープなエレクトロトラックに乗せて、〈キンタマが右に寄っちゃった オールナイトロング〉というフレーズがリフレインする、「人生で1度聴いたあと頭から離れなくなった曲ランキング」という極私的なランキングの中で長い間1位に輝いていた「オールナイトロング」に比肩する中毒性。この「ワンコロメーター」において、『愛の休日』で果たされた音楽の具体化が、また一歩進んだ印象だ。

柴田聡子「ワンコロメーター」(Official Video)

 歌詞の内容はといえば、「2丁目の吉田さん」が飼っていたワンコが、祭りの日に迷子になったままいなくなってしまった。するとある日、テレビ中継されていたヒマラヤ奥地の風景の中に、そのいなくなってしまったワンコがいた……というもの。「ワンコロメーター」とは、いなくなったワンコを探すレーダーらしい。歌詞を読む限り、「2丁目の吉田さんち」はワンコがいなくなってからというもの、葬式状態なのだという。悲しい話である。ワンコはいなくなるし、そのワンコがいるのヒマラヤだし……。一体どうやって、ワンコはヒマラヤまで行きついてしまったのだろうか? 犬のやることはマジでわからない。……そんなことを考えていると、もしかしたら柴田聡子は、「人間」と「獣」をかなり明確に区別しているのかもしれないな、と思い至った。

 公開されたMVで、柴田は愛くるしく柴犬と戯れているが、でも犬の考えていることなんて全然わからないし、この「ワンコロメーター」という曲において僕らが思いを馳せることができるのは、どちらかというと、犬がいなくなってしまった「2丁目の吉田さんち」の悲しみの方である。犬の行動はどうすることもできないが、もし「吉田さんち」の誰かと自分が出会うことがあれば、何かしらの言葉や態度で、吉田さんと悲しみを分かち合ったり、慰めることはできるだろう。ヒマラヤにいるワンコを取り戻そうと思うと、「2丁目の吉田さんち」は、かなりの時間やお金を工面しなければいけなくなるかもしれない。それとも、ワンコはまた再び、吉田さんちに気まぐれに帰ってくるのだろうか……? でも、犬の考えなんてわかんねえよ、ちくしょう。謎のレーダー装置「ワンコロメーター」は、離れ離れになったワンコとの距離を教えてくれはするが、その距離を埋める術までは持ち合わせていなそうだ。

 あるいは、この「ワンコ」とは、人の心の在り様そのものを暗喩しているのではないか? とも考えられる。このワンコのように、僕らの心は迷子になった途端に、どこか及びもつかない場所にまで唐突にたどり着いてしまうかもしれないぞ、と。

 右に寄ったキンタマは「こねっ」として直せばいいが、離れ離れになってしまった大切な犬や心は戻ってこないかもしれない。「後悔」のMVもそうだったが、この「ワンコロメーター」のビデオにおいても、柴田は時折、カメラを真っ直ぐに見据えながら、「今はこれしか伝えることはありません」と言わんばかりの迷いのない表情で歌っている。この曲が柴田聡子の全てだとは思わない。でも、ここで捉えられた柴田聡子の「気分」――僕にはとても、人間のもの悲しさを捉えたものに思える――は、とても確かなものとして、この耳に響いてくる。

■天野史彬(あまのふみあき)
1987年生まれのライター。東京都在住。雑誌編集を経て、2012年よりフリーランスでの活動を開始。音楽関係の記事を中心に多方面で執筆中。Twitter

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