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「閉じこめられた女性」を描き続けるソフィア・コッポラ 『The Beguiled ビガイルド』に見る変化

リアルサウンド

18/11/9(金) 15:00

 映画界のサラブレットと言えばフランシス・フォード・コッポラの娘ソフィア・コッポラの名前を思い出す人も多いのでは? 映画監督の両親は言うに及ばず、ファミリーのなかで映画関係の仕事に就いていない人を探すほうが難しいほどの映画界の王族とも称されるコッポラ家。

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 初長編監督作『ヴァージン・スーサイズ』(1999年)のヒットで一躍ガーリーカルチャーの牽引者として躍り出たソフィア・コッポラ監督は、現在に至るまで長編作品を6本発表しており、その才能で二世監督という七光りを返上しました。一連の作品には彼女しか出せない作品性があり、一貫したテーマが潜んでいます。彼女が描くテーマはなんなのかーー? それを探っていきたいと思います。

■ジェンダーに“閉じ込められた”女の子たち

 『ヴァージン・スーサイズ』は1970年代のミシガン州に住むリスボン家の美人姉妹の自殺を描いた物語。5人姉妹は近所の男の子たちの憧れ。厳格な両親は姉妹に普通の女の子の楽しみを与えず、末っ子のセシリアの自殺をきっかけに姉妹全員がそれぞれ自殺してしまいます。

 姉妹が自殺した理由は明らかになりませんが、近隣の男の子たちが語り手として登場しているところにヒントがあります。劇中、姉妹は男の子たちの視点によって語られ、彼女たちの主観的な感情は決して語られません。男の子たちにとって、リスボン家の女の子たちは悩みや葛藤を抱える“人間”ではなく、若く、美しく、ミステリアスな“見られる”存在。セシリアの自殺によって、やっと周囲の男の子たちは、彼女たちがリアルな人間だと気づきます。

 『マリー・アントワネット』(2006年)も同じく、ヴェルサイユ宮殿に“閉じ込められた”王妃の悲劇を綴った物語。跡継ぎを産むという王妃としての役目をようやく終えた後、自分らしさに目覚ていくマリー・アントワネット。ヴェルサイユ宮殿の窮屈な伝統やしきたりをかなぐり捨てて、プチトリアノン離宮で村を作ったり、演劇を開催したり、自由なファッションを身につけたりと、自分のクリエイティビティを発揮し自分らしさを探求します。

 けれども、自己に目覚めたマリー・アントワネットがたどる運命も『ヴァージン・スーサイズ』と同じ“死”。リスボン姉妹もマリー・アントワネットも、社会や親からは従順で純真無垢である“少女性”を、男性からは“性的対象物”であることを強いられている存在。人間が成長するために必ず通過する、セクシュアリティやアイデンティティの目覚めを無理やりジェンダーに閉じ込められたらどうなるのかーー。この2本の作品を通して、“女の子であること”の抑圧をコッポラ監督は描いているのではないでしょうか。

■セックスを超えた人と人のつながり

 多くの映画祭で賞を総ナメし、2004年度のアカデミー賞では脚本賞を受賞して、ソフィア・コッポラ監督を一流監督の仲間入りにした『ロスト・イン・トランスレーション』(2004年)。本作でも若い女性シャーロットとハリウッドの中年俳優ボブがTOKYOという異国の街に“閉じこめられて”います。シャーロットは名門大学を卒業して2年経ちますが、文筆家なりたいと思うもののなにをしているわけでもありません。セレブ写真家の夫と一緒に来日中ですが、目新しいはずのTOKYOの風景にも、夫に対してさえも、空しさを感じる毎日。

 かたや、ボブのほうは結婚25年目。結婚にも仕事にも倦怠期を迎えて、CM撮影のために日本にやってきました。2人ともパートナーと心を通わせることができず、自分が何者かもわからなくなっているアイデンティティ・クライシスの真っ最中。

 タイトルの『ロスト・イン・トランスレーション』は、ある言語が別の言語へ翻訳される過程において失われてしまった本来の意味を指しますが、この映画では言語化できない“孤独な感情”のメタファーでもあります。映画全編にわたり、感情あふれる直接的なコミュニケーションを交わすのはシャーロットとボブのみ。だから、孤独を共有する2人は強く惹かれ合っていきます。ほかの人との会話はそのほとんどがファックス、電話、通訳といった媒体を通しており、シャーロットと夫のやりとりにでさえ心や感情が欠落しています。

 一見、シャーロットとボブの関係はロマンティックに見えますが、彼らは恋に落ちているというよりは、お互いに自分自身を見い出しているよう。シャーロットはボブに、ボブはシャーロットに自分自身を見ることで、自分がもつ孤独や虚無感に向き合い、それらを手放すことを学びます。だからこそ、シャーロットとボブは性的に結ばれなかったのでしょう。

 2010年度のヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した『SOMEWHERE』(2010年)もセックスを超えた父と娘のつながりを描いた物語。主人公であるハリウッド・スターのジョニー・マルコは女性を性的対象物としてしか見ることができず、それゆえに周囲と人間らしい関係を築くことができません。

 例えば、ジョニーが退屈しのぎに2人のストリッパーをホテルの部屋に呼び、ポールダンスを鑑賞するシーン。2人のブロンドヘアの女性は瓜二つで、ジョニーには区別がつきません。ここに、ジョニーが女性をひとりの人間としてではなく、“若い、美しい、健康、エロティック”といった性的対象化していることが顕著に表れます。とはいえ、ジョニーは離婚した妻と一緒に住んでいる11歳の娘クレオと一緒に時を過ごすことによって、女性を“生きている”人間として見るように成長していきます。

■“見られる”側に回った男たち

 しかしジョニー自身もまたハリウッドスターというフィルターを通して“見られ”ます。ジョニーの行く先々で彼を誘惑する女性たちは、彼の人間性を無視して性的対象化する。これを敏感に感じ取ったジョニーは疎外感に悩まされ、誰とも心を共有することができない……。本作では、男性もまた性的対象化される存在であることを浮き彫りにしたところが『ヴァージン・スーサイズ』や『マリー・アントワネット』にはなかった視点でしょう。

 続く『ブリングリング』(2013年)でも男性が“見られる”側に。本作はカリフォルニアに住む5人の少年少女がセレブ宅で窃盗を繰り返す実際に起こった事件を映画化したもの。登場する4人の少女と1人の少年は中流家庭の高校生で、お金に困り盗みをするわけではありません。学校で、そしてSNSで“見られる”ためにセレブの持ち物を盗みFacebookに投稿します。

 強盗団の唯一の少年マークは少女たちと性的な関係を結ばず、彼のセクシュアリティは明確に語られてはいませんが、彼は少女たちを“見る”側ではなく、彼女たちと一緒に“見られる”側を選びます。SNS世代を映し出したこの物語では少年少女が性別の関係なしに、“見られる”ことによって自己を解放していく様子が鮮明。SNSが人間の他者承認欲求や自己顕示欲をますます強くさせ、セクシュアリティやジェンダーが現代では流動的に変化していることに言及しているのです。

 結局5人の少年少女は逮捕されるのですが、「Facebookの友達申請が800人も来た」と嬉々として語り、やっと本物のセレブの仲間入りを果たした(と思い込んでいる)彼らにとってはハッピーエンドとも言えるこの結末から、ソフィア・コッポラ監督はなにを伝えたかったのかーー。監督自身もまたセレブの一員として、セレブが人間として見られず、モノとして表層化されてしまったことに問題提起しているのかもしれません。

■男女が逆転した『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』

 2017年に公開され、同年度のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』は、処女作『ヴァージン・スーサイズ』のように外界から遮断された世界に閉じ込められた女性たちを主役にしている作品です。

 1966年に発表されたトーマス・カリナンの原作を映画化した本作は、1971年に監督ドン・シーゲルがクリント・イーストウッドを主演に迎えて『白い肌の異常な夜』として映画化したもののソフィア・コッポラ版。

 南北戦争時代の南部ヴァージニア州にある女子寄宿学園の生徒が、ある日、怪我を負った北軍の伍長ジョン・マクバニーを見つけます。敵軍の兵士ながらも、キリスト教の教えにのっとって怪我が治るまでジョンの面倒をみることにした女性たち。シーゲル監督がジョンの男性視点で物語を作ったことに対して、ソフィア・コッポラ監督は女性7人の視点で物語を脚本化しました。

 シーゲル監督作に見るジョンは(子供を除き)女性たちを性的対象物として眺め、自分の欲求を叶えるために利用します。ジョンに求められた女性と求められなかった女性のなかで疑心暗鬼や葛藤が起こり、最後には……。

 一方、ソフィア・コッポラ監督作では、女性たちのほうがジョンを“見る”立場に立っています。オールドミスの教師で学園から脱出したいと願っているエドウィナは“自由”、早熟な年長の少女アリシアは“性的興味”、厳格なマーサ学園長は“大人の寂しさを共有できる”対象としてそれぞれジョンを“見る”。しかも事態を悪化させるかのように、エドウィナと駆け落ちの約束をしながらアリシアとも関係を結び、マーサにも誘惑まがいの態度をとるジョン。言い換えれば、ジョンは女性たちの欲望に受動的に答えて反応するだけ。この女の園で、いわゆる受身の“女らしく”振舞っているのはジョンのほう。7人の女性のほうが主導権を握っており男女が逆転したかのようです。『ヴァージン・スーサイズ』や『マリー・アントワネット』では閉じ込められた女性が死にいたりますが、『ビガイルド』では女性が男性を閉じ込め死を与える……。

 加えて、映像の暗さ、ポップ・ミュージックの欠如がこれまでの作品と一線を画しています。これまでの作品の映像は淡く、ノスタルジックでガーリーな彩りが特徴的だったのと対照的に、『ビガイルド』の映像はとても暗く、冷たい。あわせて、『マリー・アントワネット』のような歴史作品にさえポップ・ミュージックを挿入することで有名なソフィア・コッポラ監督が、本作では不穏でダークな音楽を多用しているのです。(ちなみに、音楽担当は彼女の夫トーマス・マーズがボーカリストとして在籍するバンドのフェニックス)

 ラストでジョンを葬り去り、女の園に留まることを選んだ女性たち。ここには、もはや“閉じ込められた”悲劇の女性たちは存在しません。彼女たちは自分の城に留まることを選び、処女性を守る鎧のような白いドレスをまとう……。

 “女の子であること”の抑圧を描いてきたソフィア・コッポラ監督に起きた変化。女の子に、甘い音楽の調べや助けてくれる男性は必要ないのです。なぜなら、女の子は女の子であることを自由に楽しめる時代になったのだからーー。(此花さくや)

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