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ぴあ

2018年、日本映画はニューフェーズへ(中編)『寝ても覚めても』『きみの鳥はうたえる』の9月

リアルサウンド

18/10/22(月) 10:00

・「大きな」映画と「小さな」映画

 世界の全的な傾向に目を向けると、いま「映画」最大の問題は、多様な映像環境の進化と乱立により、「映画」の定義そのものが揺らいでいることだ。それはインターネットが完全普及し、デジタルシネマが標準となった21世紀における映画のアイデンティティ・クライシスである。例えばYouTube動画は短編ドキュメンタリーとどう違うのか?とか、カンヌでも議論の対象となったNetflixのみの配信作は「映画」か否か?といった設問は幾らでも挙げることができるだろう。いまは劇場や映画祭のスクリーンで一定期間上映されるという流通回路に乗った動画を、主に「映画」と称しているに過ぎない。そして「映画らしさ」という受容イメージは、エジソンやリュミエール兄弟から100年以上、映画の歴史が積み重ねてきた共同幻想の上に成り立っていると断じても、決して言い過ぎではない。

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 しかしハリウッドの「大きな映画」なら、いまもって「映画らしさ」の担保は比較的容易だ。ディズニーランドやUSJのアトラクションと同様のVR技術を使っても、ひたすら快楽消費的な体感とは異なった「映画らしさ」への落とし込み――3Dや4DXなどの「横軸」で差異化することができる。例えばIMAX公開されたデイミアン・チャゼルの『ラ・ラ・ランド』(2016年)やクリストファー・ノーランの『ダンケルク』(2017年)、あるいは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)、さらに3Dの『ゼロ・グラビティ』(2013年)などは、VRアトラクションとの差異化の中で、より映画史との関連や従来ファンの快楽原則を手放さない形でグレードやチャームを高めた成果――象徴的に言えば、映画の20世紀性と21世紀性の狭間で強度を上げることにより「映画らしさ」を成立させた「大きな映画」の先端と言えるだろう。

 対して日本が条件的に余儀なくされる「小さな映画」はどうか? まずは映画がMVやネット動画群などと一線を画す質とボリュームを獲得するための「横軸」の試みとして、隣接する他ジャンルの強度を借りて補強するという戦略が取られてきた。菊地成孔も先のテキストの中で、近年の日本映画で役者を駆動させてきたフォームは「演劇と漫画」だと指摘しており、非シネフィル的な「ここ数年の人気監督」として挙げられている園子温(1961年生まれ)と三池崇史(1960年生まれ)も、まさに前者が演劇、後者が漫画のフォームをがっちり組み込んで、自身の映画の強度を上げてきたのは間違いなかろう。

・「ニューシネフィル」の台頭

 この「横軸」問題を山下敦弘に当てはめるならば、彼の補強材となるのは「サブカル」全般と言える。いましろたかしの漫画から絶妙に脱力した作劇のヒントを得て、ボアダムスの音楽で余韻を攻勢的に締め括るといった具合に。同系の傾向や資質を最も端的に備える重要作家は、大根仁(1968年生まれ)である。彼の「サブカル」から養分を汲み取ってDJ的に作品を再構成する作法は、実はその教養主義的な側面においてもシネフィルと本質的な違いはほとんどない。ただ決定的に異なるのは、文体そのものがテレビやAV等とのハイブリッドであり、話法の質において「映画」の外へと受容が広めに開かれている点だ。

 しかしこの日本式「横軸」派の精鋭たちがある程度出揃った飽和状態とも言える現在――後続にはどういった道が残されているのか? そうなるとむしろ有効な選択肢は「横軸」より、映画史という「縦軸」から養分を汲み取る姿勢へと自動的にシフトチェンジされるだろう。こう書くとマーケティング的チョイスめいて嫌らしいが、そうではなく、必然的に映画の奥深さを縦に掘っていくタイプの強さが目立ってきたということだ。つまり100年強の歴史を参照した、純粋培養の映画文法が当たり前の形で「映画らしさ」として相対的に上がってきた。これが「ニュー・シネフィル」台頭の現象的な根っ子だと思う。しかも国産サブカルに多く軸足や出自を持つ日本式「横軸」派が、どうしてもドメスティックな表現に留まりがちなのに対し、「縦軸」派はピュアネスを湛えた「小さな映画」の先鋭として、アトラクション化するハリウッドのカウンターにも成り得る。すなわちその意味で世界性(国際性)も獲得しやすい。

 そして彼らがシネフィリー(映画愛)の中に閉じていかないのは、過去の映画から譲り受けた技法をあくまで「道具」として使うから。これはもしかしたら、小津安二郎が言うところの「僕は豆腐屋だから豆腐しか作らない」イズムのニューモードでの復活かもしれない。昔なら撮影所システムで受け継がれた製法をインディペンデントの作家たちが独自に再発見して、自分たちの表現のために、自分たちのやり方とサイズで応用しようとしている。それは結果的に、伝統と時代性を融合させながら、オーガニック素材でこだわりのデニム作ってます、みたいな工房の立ち上がりにも似てくる。各々が身の丈の仕事場を構えて、良質の「小さな映画」をこつこつ作る。おそらくこれがいま、日本映画の一部エリアを覆う「ニュー・シネフィル」台頭の風景だと思う。

・『きみの鳥はうたえる』の幸福感

 実は今年(2018年)の9月は、そんな「ニュー・シネフィル」派の現在を観察するのに格好の時期であった。というのも先述した濱口竜介(1978年生まれ)の新作『寝ても覚めても』と、三宅唱(1984年生まれ)の『きみの鳥はうたえる』が共に9月1日に全国公開されたからだ。このふたりが本潮流の代表的な作家のうちに数えられることには誰も異論はないだろう。

 筆者の素朴な印象を記すなら、彼らはほぼ同軸で対照的な個性として映っている。まず三宅唱は、基本的に「幸福感」を描く作家だと思う。『やくたたず』(2010年)や『Playback』(2012年)の基調音になっていたチーム男子的な部活感を、露骨かつ伸びやかに全面展開したのが『THE COCKPIT』(2014年)だ。マンションの小さな部屋でヒップホップクルーが1曲仕上げるまでの過程をドキュメントしたもの。コクピット空間を規定するスタンダード画面で、サンプラーをいじる指と仲間たちの提案や言葉から音楽が立ち上がってくる歓びの時間を観る者に共有させる。内容やスタイルには、ゴダールの『右側に気をつけろ』(1987年)や『映画史』(1988~1998年)に発想の素を求められるかもしれない。だがそのコンセプチュアルな方法意識が、むしろシンプルな日常の祝祭性を平易に盛り立てる。それが『きみの鳥はうたえる』になると、本人と地続きになるまでこなれさせた役を生きる男女3人の俳優のきらめきだけが映っているようだ。

 函館の街での傑出したナイトクラビングのパートが顕著なように、フリーハンドな有機性と柔らかさで「いい時間」を生成していく。物語的には「男2・女1」という、あえてタイトル群を挙げるまでもない青春映画の黄金形を装備しているが、それは佐藤泰志の原作小説からトレースしたテンプレートであって、演出レヴェルでは設定の強度に寄り掛からず、むしろそのコードを美しく循環させる形で、アンビエント・ミュージック的な生の波動が持続する。まさしくシネフィル性が技法や道具として機能した理想的な例であり、少なくとも映画に浸っている間、マニア的陥穽に導く参照先といったものは思い浮かばない。また柄本佑や染谷将太という、映画の生成に深い理解のある「ニュー・シネフィル俳優」(ガチで監督の映画的素養と渡り合える若手の役者が増えている……これぞ日本映画の最も重要な潮流のひとつと言ってもいい)との幸福なコラボレーションの成果でもあることも特筆すべきだろう。

・『寝ても覚めても』の不条理

 対して濱口竜介は、幸福感の裏側にあるもの――「見えているもの、とは違うもの」を露呈させようと試みるタイプではないか。一見普通の、何の変哲もない世界の裏あるいは奥には、二面性どころではない複雑な現実や存在のレイヤーがある。三浦哲哉はそれを「厚み」と呼んでいるのだと思うが、ゆえに濱口の映画には、通常の認知の向こう側、こちらの知らない世界が広がっている可能性の不穏さが付きまとう(ただしこういった映画並びに表現の在り方は、差し出される裏の顔、その意外性がすでに「織り込み済み」の人もいるはずで、受け手の経験値によって印象や衝撃の度合いは結構変わってくると思う)。

 今回の『寝ても覚めても』は、ドッペルゲンガー的な同じ顔の男性ふたりという不条理めいた出会いに翻弄されるヒロインの焦燥と葛藤を描く。ファム・ファタールならぬオム・ファタール物と言うべきか。「商業映画」のデビュー作と銘打たれたものだが、しかしいかにもフィクショナルなお膳立てで性急さも含む展開のせいか、『ハッピーアワー』の長い時間をかけてことこと煮るような生成に比べると、筆者にはどこか「参照的」な方法意識が突出して見えることが多かった。不確定な宙吊り状態で嫌な予感が持続するホラーめいた前半と、恋愛の魔的な奔流を場の空間性や地形を活かしてエモーショナルに演出するクライマックス。これは「黒沢清+成瀬巳喜男(もしくは増村保造)」という旧シネフィル的な落とし込みの理解も可能ではある。

 ともあれ、このふたりの作家が「同軸」として共有するのは、シネフィル性を表現手段として世界の謎に挑む姿勢だ。そして当然にもいまを生きる人間として、政治性が日々の暮らしの風景に等身大の実感に基づくサイズで装填されている。また、その提示はさりげなくも結構アクセントが強い。『きみの鳥はうたえる』にチラ見えする脱原発のブックレット、『寝ても覚めても』で転換点として付与される3.11(柴崎友香の原作小説は2010年発表で、1999年から2008年までの物語)。日常とは政治である――とりわけ震災以降、我々にとって切迫した意識となったこうした新しい生活のリアリティは、筆者には「大阪芸大マンブルコア」の系譜が映し出した美点を自然に延長しているようにも見える。そう考えると佐藤泰志シリーズの最新作となった『きみの鳥はうたえる』が、『海炭市叙景』(2010年)の熊切和嘉、『そこのみにて光輝く』(2014年)の呉美保、『オーバー・フェンス』(2016年)の山下敦弘という大阪芸大組からバトンを受け取っているのは面白い。ある意味「ニュー・シネフィル」派とは、「立教ヌーヴェルヴァーグ」と「大阪芸大マンブルコア」の止揚形だという言い方(見え方)も可能になってくるかもしれない。

 以上の点を踏まえつつ、筆者が「ニュー・シネフィル」派の今後に期待したいことは(あるいは危惧とも言えるのだが)、社会との関わりの部分である。ハリウッド映画、そして日本の演劇や漫画、サブカル全般と連結した「横軸」派には、やや品に欠けるかもしれないが、映画の外界をパワフルに食い破っていく拡張力や突破力がある。「縦軸」派の品の良さが、誠実な政治性を湛えながら、結局はシネマエリートの蛸壺(象徴的に言うなら左翼的な陥穽といったところか)に収まってしまうのなら、これほどつまらないことはない。例えばいまの日本映画シーンにおいて、是枝裕和の作家的アピール力が国内外で突出しているのは、作品構造としてもコア層や煩型から批判を受けがちな「わかりやすさ」を引き受け、映画を通して社会と具体的に関わっていくことを優先的に選択しているからだと思う。(後編に続く)

・森直人(もり・なおと)
映画評論家、ライター。1971年和歌山生まれ。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『21世紀/シネマX』『日本発 映画ゼロ世代』(フィルムアート社)『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。「朝日新聞」「キネマ旬報」「TV Bros.」「週刊文春」「メンズノンノ」「映画秘宝」などで定期的に執筆中。

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