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【ネタバレ】『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』はなぜいびつな作品になったか

リアルサウンド

18/11/29(木) 10:00

 J・K・ローリングによる原作小説や、映画化作品で絶大な人気を誇る『ハリー・ポッター』シリーズ。その終了後に制作が始動した新たな映画シリーズが『ファンタスティック・ビースト』だ。『ハリー・ポッター』のなかに登場した書籍で、実際に販売もされた『幻の動物とその生息地』を基に、J・K・ローリング自ら脚本を書き上げた、いまのところ5部作になるといわれている長大なスピンオフ企画である。その第2作となるのが、ここで扱う『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』だ。

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 この作品、ほどほどの楽しい娯楽映画だとたかをくくっていると、いろいろな意味で驚かされることになるはずだ。なぜならそこには、J・K・ローリングの内面が予想以上に反映していたからである。ここでは、そんな『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』のどこが驚きの部分なのか、ストーリーそのものよりも、今回の作品の本質にある「愛」と「政治」の問題を中心に解説していきたい。

 『ファンタスティック・ビースト』シリーズは、1920年代後半から世界各地を舞台に、主人公のニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)の風変わりだが魅力的なパーソナリティ、幻の動物たちや仲間たちとのふれあい、悪事をはたらく強力な闇の魔法使いとの戦いを描いていく。

 本シリーズは第1作から、ただそのような要素を娯楽として楽しませるだけのものにはなっていなかった。ニュートたちの生きる魔法世界と人間の世界には、とりわけ第一次世界大戦から第二次大戦の狭間にある微妙な社会情勢がとりまき、それを現在の世界に横たわる様々な問題をリンクさせることで、そこにJ・K・ローリングなりの解答を提示する仕掛けが施されていたのだ。(参考:『ファンタビ』には“トランプ批判”が込められている? 社会派ファンタジーとしての側面を読む)

 『ハリー・ポッター』シリーズでも描かれてきた魔法使いと人間(マグル)の間における差別や偏見の問題をはじめとして、政治家と大企業との結託、貧富の格差、死刑制度への批判など、物語のなかでJ・K・ローリングは、自分の政治姿勢と、あるべき未来像を明確に指し示していく。

 とくに本作では、排外的になりつつある現在の世界の動向が、作品に深い影響を及ぼしていると思われる。象徴的なのは、やはりイギリスが国民投票によって、移民問題が大きな焦点となっていたEU離脱を決定したことであろう。この決定を受けたローリングはSNSで「グッバイ、U.K.(イギリス)」と、深い失望の念を漏らし、故郷であるスコットランドをイギリスから独立させることすら主張していた。

 この出来事は、彼女が本作の脚本を完成させた時期と、ちょうど重なっている。第1作に比べ、急激にダークな雰囲気が加わったのは、少なくともこの決定に至るまでのイギリスの緊迫した空気と、排外的な価値観の蔓延に対する彼女の気持ちの反映であるように感じられる。

 本作のクライマックスで、闇の魔法使いグリンデルバルド(ジョニー・デップ)が集会で演説をするシーンが圧巻だ。彼は魔法使いの優位性や、人間の愚かしさと危険性を説くことで、魔法使いたちのなかにある人間への偏見や憎悪(ヘイト)を煽ろうとする。そして共鳴した者たちは、この思想を広めるべく、それぞれ各地へと飛び立っていく。おそらく次作以降、世界に差別思想が広がりを見せ、魔法界全体が穏健派とグリンデルバルド派に分かれるだろう。グリンデルバルドが生み出した青い炎と、対抗するニュートたちが生み出した赤い炎のぶつかり合いが示すのは、政治的な思想が二分したイメージに他ならない。

 興味深いのは、グリンデルバルドの主張に説得力があることだ。彼は予知された第二次世界大戦の悪夢的景色を聴衆に見せつける。そこには、近代兵器が街を破壊する姿や、ナチスドイツによるユダヤ人のホロコースト(大量虐殺)、日本に落とされた原子爆弾の爆炎が映し出されていた。そして、このような残虐非道な行為を平気でできる人間には、断固たる手段を講じるべきだという論理で聴衆の思考を誘導していく。

 しかし、そこにはトリックが隠されている。たしかに戦争における虐殺は、人類による大きな罪だといえるが、そんな非道ができたのは、そもそも他の民族を蔑視する思想が背景にあったからではないのか。それを利用して差別を行いながら「戦争を起こさないための戦い」を煽ろうとする。平和的に人間たちに戦争を回避させ、魔法界にも被害が及ばないようにするような手段は、ここではわざと除外されているのだ。一定の事実を混ぜながら、問題を乗り切る方法は一つの道だけだと思わせることで、グリンデルバルドは周到に計算しながら人々を自分の野望へと導いていく。

 次々にグリンデルバルドのもとへと去っていく魔法使いたち。前作で人間の優しい心に恋をした魔法使いまでが、孤独感から差別的な思想に共鳴していく場面は、あまりにも悲痛だ。ここにJ・K・ローリング自身の、現在の社会に対する実感が込められている。また同時に、本作はグリンデルバルドの内面を描き、同じような葛藤の構図が彼にも存在するということを明らかにしていく。

 今回の目玉の一つとなっているのが、久しぶりに『ハリー・ポッター』シリーズの舞台だったホグワーツ魔法魔術学校が登場するところだ。ジュード・ロウが若い頃のアルバス・ダンブルドア(『ハリー・ポッター』のホグワーツ校長)を演じ、そこで教え子のニュートを指導する回想や、闇の魔法使いグリンデルバルド(ジョニー・デップ)との戦いについて相談に乗る場面がある。そんなダンブルドアは、かつてグリンデルバルドと兄弟以上の固い結びつきを持っていた。

 ダンブルドアとグリンデルバルド、彼らは進む道が分かれ関係が決裂してなお、互いを愛し続けていたことが、あるアイテムの出現によって象徴的に表現される。さらに、あるキャラクターの素性が明らかにされるシーンでは、それによってグリンデルバルドのダンブルドアへの執着心が観客に露見してしまうのだ。これはもう愛の告白と言って差し支えないだろう。

 ここにきて、ジョニー・デップとジュード・ロウという美形俳優がキャスティングされた意味が理解できる。本シリーズが最も熱を持って掘り下げる物語とは、じつはこの二人が心に秘めながら、しかし決して叶えられることはないだろう、哀しい愛の行方だったのだ。

 本作はこのような描写から、もはやロマンス映画と化していて、柱となっていた幻の動物やニュートの活躍を、ほとんど脇へと追いやってしまっているようにすら感じられる。それでいて作品本来の主旨をまっとうするために、主人公や動物を活躍させなければならないというジレンマが発生しているため、本作は『ハリー・ポッター』シリーズをも含めたローリング作品のなかで、統一しきれない多くの要素をバラバラに表現しなければならない、最もいびつな作品となってしまっているように思える。『ハリー・ポッター』にも、あるキャラクターの哀しいロマンスが描かれていたのは確かだが、あくまでそれは主人公が解き明かすミステリーの文脈に収まる、一般的な娯楽表現のなかにとどまっていたはずである。

 政治的メッセージや耽美的なロマンスへの傾倒など、要請される期待をはみ出してまで、そこにはJ・K・ローリングが書きたい要素が、これまでになくそのまま叩きつけられている。グリンデルバルドが、はからずもダンブルドアへの歪んだ愛をさらけ出してしまったように、ローリングの凶暴なまでにエゴイスティックな欲望もまた、観客の前に露わになってしまっているように感じられる。だが、それこそが「作家性」だと言うこともできるのではないだろうか。

 その意味において本作は、J・K・ローリングが脚本家という立場で、いままでになく「作家」となった作品であるといえるだろう。『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』は、彼女にとっても新たな表現方法を確立する「誕生」の作品だったのかもしれない。願わくば、このブレーキ無視のスタイルを貫いてもらいたい。ローリングの作家的な深化が、一体どこへつながっていくのか……『ファンタスティック・ビースト』という目的地の見えなくなってきた旅に、このまま観客として同行できるなら、こんなにエキサイティングなことはない。(小野寺系)

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