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岡田准一主演『来る』に隠された「あれ」の正体 原作との比較から考える

リアルサウンド

18/12/17(月) 10:00

 頭痛、めまい、吐き気をおぼえつつ、劇場の出口をめざした。澤村伊智によるホラー小説『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫刊)を原作とした、中島哲也監督の4年ぶりの新作『来る』を観てのことである。

【動画】岡田准一が“何か”に怯える姿が 『来る』予告

 『告白』(2010)、『渇き。』(2014)と、一大センセーションを巻き起こした監督の最新作とあって、鳴り物入りで迎えられた本作だが、やはり、というべきか、原作の読後感とは印象が異なる。中島作品らしい音と光の氾濫が私たちを襲い、原作からの改変と演出、俳優たちの演技といったものが有機的にはたらいた、ある種の映画の力を感じられる作品となっているのだ。

 さて、なぜ映画化に際し、タイトルから「ぼぎわん(が、)」が消されているのか。前作が『果てしなき渇き』という原作のタイトルから、映画では『渇き。』と改変されていたことを鑑みれば、単純に口に出しやすい“語呂の良さ”が理由だと考えることはできるかもしれない。思えば『告白』もタイトルが二文字の作品であり(『渇き。』は厳密には三文字だが)、誰もが一度でも目にすれば/耳にすれば、口に出しやすいというのはあるだろう。宣伝的な戦略判断だろうか。しかしそれ以上に重要なのは、本作において「ぼぎわん」という主体そのものが消されている、正確に言えば、“隠されている”、あるいは“ぼかされている”ということである。原作とは「ぼぎわん」そのものの扱われ方が異なるのだ。

 ところでこの「ぼぎわん」とは、とある地方の民間伝承にある妖怪の名だという。安易にその名を口にすることははばかられ、みな一様に「あれ」と呼んでいる。原作では、土着風習や、ある一族の因縁といったものをたどることで、やがて「ぼぎわん」という存在の実体が見えてくるのだが、本作ではその実体を捉えることはできず、より匿名的に「あれ」として扱われているのだ。つまりは、曖昧な存在なのである。

 この時点で「あれ」とは、「ぼぎわん」以外の存在にも交換可能だとも言える。誰しも一度は幼少期に、親類縁者からそういった存在をほのめかされ、怖い思いをした経験があるのではないだろうか。それらは現在も脈々と語り継がれ、ある意味では身近な存在だとも言えるだろう。数年前に筆者は友人のカッパ探しに同行し、民話の里とも呼ばれる岩手・遠野まで赴いたことがある。現地で語り部の方から民話を聞いたあとで目にした、カッパの伝承地“カッパ淵”や、有名な姥捨て山“デンデラ野”は、やはり想像以上に寒々しいものであった。

 少し脱線してしまったが、こういった日本人だからこそ持つことができる、不可思議な存在へのある種の身近さ、リアリティが、原作から読み取ることができる恐怖の大きな要因であったように思う。これが本作では、登場人物たち「個」の心(の闇)に、よりフォーカスしている。外ヅラばかりいい“イクメンパパ”(妻夫木聡)、育児ノイローゼの妻(黒木華)、ある理由から子どもの存在を快く思えないでいるオカルトライター(岡田准一)、子どもをもつことができない女霊媒師(小松菜奈)。彼らを結びつけたのは「あれ」の存在ではあるが、その「あれ」が狙うのは、彼らの中心にある子どもなのである。すなわち「子」をめぐって彼らは出会い、物語が進むにつれて、彼ら「個」の心(の闇)が露見していくことになるのだ。

 原作における彼らの内面は、綴られる文字の行間から滲み出るのにとどまっていたが、その点こそが、ミステリアスかつスリリングな魅力であった。しかし本作では、演者たちの肉体と声を通して、それがより露骨に放たれている。“イクメンパパ”が絶えず浮かべる微笑は、やがて気がつけば醜い半笑いとしか感じられなくなるだろう。それらは音と光の氾濫とともに、露悪的に、まさに“バケモノ”のように私たちの前に現れるのだ。

 日本人は昔から、不可解な現象が起こると妖怪の仕業にしてきたのだという。映画化に際してその存在をぼかされた「あれ=ぼぎわん」だが、ぼかされたことによってその正体は、人の心(の闇)が生み出したもの、あるいは人の心(の闇)そのものだと受け取ることが、本作の場合は妥当だろう。

 冒頭で述べた身体の不調は、必ずしも物語に対しての反応だけではない。その一つひとつを追うことなどとうてい不可能な、本作の目まぐるしい情報の奔流から受けた、視覚・聴覚へのダイレクトなダメージでもある(1997年の“ポケモンショック”を思い出したりもする……)。物語冒頭に、「迎え入れましょう。あれを」という印象的なセリフがあるが、「あれ」を迎え入れるとは、自身の闇に向き合うこと、さらにはそれらをバケモノじみた勢いで映し出した、この作品そのものを受け取ることに他ならないのではないだろうか。

(折田侑駿)

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