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EXILE AKIRA(「BARFOUT!」 2017年6月号掲載 )

音楽シーンを撮り続ける人々 第6回 故・野村浩司の遺志を受け継ぐアミタマリ

ナタリー

19/2/7(木) 19:48

CDジャケットや雑誌の表紙、屋外看板などアーティストを被写体とした写真に心を奪われた……そんな経験のある読者も多いはず。本企画はアーティストを撮り続けるフォトグラファーに話を伺うものだ。第5回はモデルを経て後に夫となる故・野村浩司に師事し写真家に転身、現在多くのアーティストや俳優たちを撮影しているアミタマリが登場。写真家として、また1児の母として生きる彼女に波乱万丈の半生を振り返ってもらった。

陸上少女からモデルに、そして写真の世界へ

小さい頃は、“群れるのが苦手だけど活発”って感じの子供で、よく男勝りとも言われていました。産まれは山口県で幼少期は千葉県の柏市で過ごし、小学5年生のとき親の転勤で神奈川県の鎌倉に引っ越したんです。海がそばにある環境が私には合っていたみたいで、それからの生活がすごく楽しかったです。当時から団体行動は苦手でしたね。5年生から1年ちょっとバレーボールをやったんですけどチームスポーツのバレーはあまり向いてなくて、中学からは6年間陸上部で部活漬け。メイン種目だった100mハードルの成績は県大会7位止まりでしたが、400mリレーでは関東大会に出場しました。スカウトされたことをきっかけに大学からはモデルの仕事を始め同世代にはりょうちゃん、映像作家の島田大介くんなどがいました。日本人の個性派モデルが認知され始めた時代で、写真もファッションも個性が強かった。私もよくぶっ飛んだメイクとかをしてもらいました。

23歳の頃、作品撮りで後に夫となる野村浩司さんに出会いました。当時の私はモデルとしてのチャレンジをし尽くして、なんとなく未来が見えなくなっていたんです。だからといってほかに何もできない。そんな不安定な時期に野村さんに声をかけてもらって野村写真でアルバイトをすることになりました。昔はすべてフィルム撮影だったので、ラボへの現像出しやピックアップ、ベタやプリントの納品など、とにかく届け物が多くて。当時の野村さんのアシスタントは免許を持っていなかったので、バイクに乗っていた私を野村さんが「お前便利やな」と、バイク便などの雑用バイトとして雇ってくれたんです(笑)。それが写真の世界に入ることになったきっかけです。

写真家への転身

野村さんのところで裏側の仕事を見るのはすごく楽しくて、モデル活動の合間に暇があれば野村さんの事務所でひたすら雑用をするようになりました。できあがった写真を見ているうちに「私も現場に行きたい」って思うようになって、1つひとつ新しいことを教えてもらうようになったんです。写真をやりたい気持ちがありながらモデル活動もするというどっち付かずの状態で1年くらい続けていましたが、それを見かねたのか、ある日野村さんに「いい加減自分の進む道を決めろ! 写真をやりたいならモデルはやめろ。それができないならもうウチには来るな!」って思いっきり怒鳴られたんです。野村さんはだんだん写真に惹かれていく私を「本気で写真家を目指すなら教えよう」って考えていたんだと思います。でも私は写真学校も出ていないし、スタジオ経験もないから写真に対して自信がなかったし、モデルをやめたら何もなくなるって思ってはっきりしていなかった。でも叱られて目が覚めて、写真の道に進むことを決心しました。すぐモデル事務所に連絡して「モデルは辞めます」って。

アシスタントになってからは大変でしたけど、すごく充実していました。夜中の2時まで作業なんてざらで、家には帰って寝るだけ。やることや覚えることがたくさんあったし、怒鳴られたりもしましたけど、地に足が着いているぶん人間的に思えましたね。私には裏方のほうが向いていたみたいです。凝った撮影とか過酷な現場とか、しんどいこともありましたけど、私は野村さん以外のやり方を知らなかったし比べるものがなかったから、不満を持つことがなくてよかったかも(笑)。自分が被写体だった頃を思い出しても、野村さんに撮られるのとほかの方に撮っていただくのとは全然違いました。もし出会った写真家が違う方だったら私は写真家にはなっていなかったと思います。雑用を含めた3年間で、野村さんから一番受け継いだのは暗室技術かな。でももっと根本的なことを言うと、物の見方、感じ方、捉え方のような“写真道”を植え付けられた感じかもしれません。

写真家として初めての仕事は、雑誌取材でのSOBUTの撮影でした。死ぬかと思うくらい緊張しましたね。でもSOBUTは友人だった川村カオリちゃんの当時の旦那さん(MOTOAKI)が在籍するパンクバンドだったので多少は救われるところもありました。今その頃の写真を見るとすごく勢いを感じます。力んでいるし強がっているし、下手くそだって思いますけど、今にはない勢いがあります。当時は男の強さに対する憧れがあって「女っぽい部分は全部捨てたい」と思っていたので、そういうトガった部分が出ていますね。今でもその強さは変わってないつもりですけど、歳を重ねて“力み”みたいなのはだいぶ和らいだと思います。

師匠の教えに支えられた

野村さんがアーティストをたくさん撮っていて、そのつながりで私も音楽業界の仕事に多く携わるようになりましたが、中でも特に印象深かったアーティストは、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTです。私がアシスタントだった時代に野村さんが数多く撮っていたアーティストで、私もファンでした。初めて自分で撮ったのはミッシェルが日本コロムビアからユニバーサルミュージックに移籍するタイミングのアー写です。チバユウスケさんが私が撮ったRUDE GALLERYというアパレルブランドのカタログを見て「いいんじゃない」って言ってくれたらしいです。「SABRINA NO HEAVEN」のジャケットの撮影で指名されたのは29歳の頃。うれしかったですけど、それよりもプレッシャーと不安で「どうしよう」と吐きそうになりました(笑)。ミッシェル解散間際の撮影だったんですが、私には解散することは知らされていなかったんです。現場はいつもに増してすごい緊迫感でした。終始張り詰めた空気の中、誰もしゃべらないし、もちろん誰も笑わず淡々と撮影が進みました。もう現場に立っているだけで必死でしたね。そのあと解散ツアーをバンドと一緒に回ったんですけど、そのときライブ写真は自分にとっても特別なものになりました。

2013年、息子が4歳のときに野村さんが突然亡くなりました。あのときは、とにかく毎日写真を撮っていた。撮っていれば野村さんを感じることができたというか、「野村さんと二人羽織」っていう意識でした。私自身も撮ることで前に進んでいる感覚があったし、止まりたくないから撮り続けて……すごく気負っていたかもしれません。当時はカメラを“神具”だと思っていたところがあって、写真を撮ることで彼を成仏させるイメージもありました。それまで仕事も私生活も全部野村さんと一緒だったけど、急に大きな柱を失って、全部自分でやらなきゃいけなくなって、いかに野村さんに頼っていたかっていうことを思い知りました。でも野村さんの写真の教えが自分の中にあることが力や勇気になって。だからがんばれました。写真をやっていて本当によかったです。

このDragon Ashの「THE FACES」のアーティスト写真は、野村さんが亡くなって1カ月くらい経ったときに撮りました。これは彼らも私もそれぞれ大切な人を失って、その辛い出来事を乗り越えようとしている時期に撮ったものだったんです。そういう意味でリンクしていましたね。気持ち的にすごく必死だった時期に撮ったもので、今ではもう撮れない写真だと思います。kjくん、本当はこの撮影を野村さんに頼もうと思っていたそうで、そんな矢先に野村さんが亡くなり、私が引き継ぐことになったんです。そういう意味で忘れられない撮影になりました。その後Dragon AshにKenKenが正式メンバーとして加わり、20周年の作品として「MAJESTIC」を出したときに雑誌の撮影で彼らと再会して。そこでは私も含めて全員笑顔で撮影ができたんです。

撮影中は裸足で踏ん張る

昔から撮影するときは着慣れたTシャツとデニムというスタイルです。色は絶対に黒しか着ません。アーティストに集中してもらうために、私は黒子に徹したいと思っているので。それとスタジオで撮影するときは裸足になります。実は三脚を使うのがすごく苦手というのもあるのですが、撮るときは腰を低く落としたり寝転がったりするので、靴や靴下を履いていると滑っちゃうしわずらわしくて。裸足だとしっかり踏ん張れるから安定して全力で撮影できますからね。私は短い時間で完璧な構図を見付けるために、数ミリ単位で上下左右に動いてポイントを探しながら撮るんです。だから少しでも動きの妨げになるような物がないよう自然体で撮影するようしています。

私自身ずっと強い被写体を撮りたいって思ってきて、でも実際そういう人たちを目の前にするとやっぱり飲まれそうになってしまうんです。だからそれ以上に自分が強くなきゃいけない。でもイメージを押し付けるんじゃなくて、「この人のここが撮りたい」というところを見つけて、そこに向かって集中して切り取るのみです。被写体が大人数だった場合、例えばRIP SLYMEとかは全員の集中力が高まるのってほんの一瞬なんですよ。全然言うことを聞かないし(笑)。その一瞬をしっかり押さえるために、5人の中に自分がどうやって入っていくかっていうことを考えたり、相手が女性だったら、心を開いてもらえるようにいつもより柔らかさを出したり。私の場合時間もそんなにいらないし会話も必要じゃない。写真を撮るのに大事なのはそういう空気だけだと思うんです。

アーティストの撮影はもちろんですが、ライフワークとして作品撮りもずっと続けていきたいです。そのときの心象風景を作品として残し、自分の生き方を写真にそのまま出せればいいなと。今はなぜ撮ってしまったのか意味がわからない作品でも、いつかそれら1点1点がつながって線になるはずだと思っています。

仕事は優先しつつ、自分の軸は家族

34歳の出産を機に、考え方はものすごく変わりました。出産直前まで大きなお腹を抱えて仕事をしていて、家でじっとしていたのは産後1カ月だけです。出産をするまではやっぱり自分中心で、自分のために時間を費やせたけど、子供ができると優先順位が変わる。それに対して「世の中に置いていかれているんじゃないか」って不安やジレンマもあったけど、「家の中で自分のやりたいことを続けていればいい」って気付いてからは、日常の景色や季節の変わり目に「こんなところに光が差すんだ」って感動できるようになって、よくポラロイドカメラで写真を撮っていました。子供を産んだことで身の回りのちっぽけなことが特別だっていうことに気付けたのは大きかったです。それに母性が満たされて気持ち的に楽になったし、それまでなかった母親目線の写真を撮ることができるようになりました。自分より大切なものがあるっていう喜びも大きかったですね。

今は朝6時に起きて、クロス(愛犬)の散歩をして、朝食を作って息子を送り出して、週3回は10kmほどランニングをする生活です。それから事務所に行って、撮影がないときは夕方6時くらいまで事務所で仕事をします。クロスと一緒に息子を迎えに行って夕食を作り10時くらいに息子を寝かせて、それからは自分の時間。写真のセレクトなどノートパソコンでできる作業や、自宅を改造して作った暗室にこもって、フィルム現像やプリント作業をするなど自分の作品作りに没頭したりしています。

私、ワーカホリック気味というか、「アレもやりたいこれもやりたい」って詰め込む性格で。それで「今日はこれができなかったな」って落ち込む(笑)。だから絶対にやらなきゃいけないことだけできればOKだと思うようにしています。それは“息子との対話”。大事な時期は今しかないし、成長は待ってくれない。大変な時期って過ぎちゃうと儚い。愛おしい瞬間ってそのときによって変わっていくし、彼はいつも120%で今を生きているんですよ。今小学3年生ですけど、中学生にもなったらもう親が入る隙なんてなくなると思うし、全力でぶつかってくるのを今受け止めないと後悔しますから。

何もかも息子が中心っていうのも違うし、バランスが大切ですけど、私は大黒柱。仕事は優先していますが、自分の軸は家族です。だから料理や家事はおろそかにしたくない。料理の時間も含めて食事はすごく大切にしていて、手間がかかるものじゃなくてもしっかりと手作りをして息子と食べるようにしています。野村さんが亡くなったときもそうでしたけど、どんなときもご飯は食べないといけない。だから作る。そういう途切れずに続く日常があるということは、とても救いのように感じています。

野村さんが亡くなって1人になってからは夜の撮影や泊まりのロケが入ったときは息子を親や友人家族に預かってもらうようにしています。息子がまだ小さかった頃は仕事が終わって汗だくで帰りながら留守電を聞くと、ヒクヒク泣く声が入っていて……そんな彼も今年10歳になるし、まだ甘えん坊だけど、最近は私が思っているよりずっといろんなことができるようになっている。だから私ももう余計な罪悪感は持たなくていいのかなって思うし、これからもっと息子を巻き込んで一緒に進んで行きたいです。1人で育てていればいろいろありますけど……1日3度のご飯、食べたい物をおいしく食べられれば幸せなんじゃないですかね(笑)。

アミタマリ

1973年生まれ。モデルを経て写真家・野村浩司に師事、2001年に独立。2003年に宝島社の新聞広告で朝日広告賞グランプリを受賞する。以降、広告、カルチャー、ファッションを中心に活躍しながら、数多くのアーティストのCDジャケットやポートレートも手掛けている。

取材・文・構成 / 中村佳子(音楽ナタリー編集部) 撮影 / 阪本勇 ヘッダ写真:「BARFOUT!」2017年6月号よりEXILE AKIRA

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