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『ヴェノム』は“サド侯爵”の精神的な子孫であるーーバディムービーとしての朗らかさ

リアルサウンド

18/11/24(土) 12:00

 ヴェノムはすでによく知られたマーベルコミックのヴィラン(悪役)で、スパイダーマンの宿敵として知られている。サム・ライミ版『スパイダーマン3』(2007)にも登場したし、2010年にはパチンコにもなっている(CRベノムの逆襲)。そんな、さして新味があるわけでもないヴェノムというキャラクターを、なぜ今になってコロンビア=ソニー・ピクチャーズはタイトルロールに抜擢し、単独で映画が作られることになったのか。

参考:ドラッグ中毒から女性のタイプまで 『ヴェノム』トム・ハーディ、意外と知らない12の秘密

 そのあたりの事情は察するにたやすい。マーク・ウェブ版『アメイジング・スパイダーマン』シリーズ(2012、2014)は興行的不振によりわずか2作で打ち切られ、予定されていたパート3、パート4の製作は中止となった。代わって登場したのがディズニー=マーベルとの共同製作『スパイダーマン:ホームカミング』(2017)だったが、この作品のスパイダーマンは、すでに前年の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016)で顔見せしていることからもわかるように、『アベンジャーズ』シリーズを中心とするマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)に包摂された存在として位置づけられている。新シリーズ第1作の副題「ホームカミング」は、長年スパイダーマン映画を手がけてきたコロンビア=ソニー・ピクチャーズからすると、内心忸怩たるものがあるのではないか。

 こんどの『ヴェノム』を見ると、MCUの独走を指をくわえて眺めていたくない、自分たちだってスーパーヒーロー映画の担い手としてこれまでがんばってきたのだ、というコロンビア=ソニー・ピクチャーズの意気地、というかもっとドロドロした怨念みたいなものさえ感じられ、何やら武者震いのような感覚に襲われる。史上最凶のヴィランを主人公に据えるあたりに、そのドロドロした怨念が反映されていると考えられなくもない。ヘドロのような不定型な有機体を眺めていると、この薄気味悪いフォルムに、天下のコロンビア=ソニー・ピクチャーズが自身のスーパーヒーロー映画の命運を託したのかと、その無茶な戦略に粛然とさせられる。

 今回の『ヴェノム』、物語は特筆すべきものでもない。ドレイク(リズ・アーメッド)という邪悪な科学者が経営する宇宙開発企業「ライフ財団」の暴走を、その暴走の副産物でもあるヴェノムがストップしようとがんばるという展開は、何度もくり返されたスーパーヒーロー映画の構図にすぎない。すぎないのだけれども、それでなんの問題もないだろう。むしろ、勾配の激しいサンフランシスコの地形が期待したほどには上手に活用されていないことの方が、映画としては問題だ。ヴェノムは本作において正確にはヴィランではない。アウトロー・ヒーローといった方がいい。事実、コロンビア=ソニー・ピクチャーズの幹部は、20世紀フォックス=マーベルによる『デッドプール』(2016)や『LOGAN/ローガン』(2017)といったアウトロー・ヒーローの成功が刺激になったと述べている。

 失業したジャーナリストのエディ・ブロック(トム・ハーディ)の身体に、異星から人類を捕食しにやってきたヘドロ型生命体シンビオートが寄生してヴェノムができあがる。そして原作からしてそうだが、ヴェノムは自分のことをWe(私たち)と複数形で呼ぶ。ワン・プラス・ワンは「2」だというリアリズムではなく、ましてやワン・プラス・ワンは「1」だというロマンティシズムでもない。ワン・プラス・ワンはどこまで行っても「ワン・プラス・ワン」にすぎないというトートロジーを彼らは生きる。トートロジーを生きつつも、彼らの相互浸透、相互影響が知らぬ間に進んでいる、というところがこの映画の一番興味深いところだ。主人公と寄生生物パラサイトの相互浸透というと、日本のファンにはすでに『寄生獣』で親しまれてきたものかもしれない。

 この相互浸透としてのワン・プラス・ワンが、意外なことにバディムービー(Buddy film)としての朗らかさを提供する。エディ・ブロックという自信過剰な、やり手気取りのおっちょこちょいは、寄生生命体シンビオートとなぜか馬が合い、彼の身体を巣くうシンビオートは、精神的な面ではむしろエディ・ブロックのいささか性急な正義感にほだされている。エディ・ブロックの耳元で囁かれるシンビオートのおしゃべりはバディムービーのそれであり、相棒同士の愛の交感である。これにエディ・ブロックもいろいろと答えてしゃべる。自然と「彼ら」を演じるトム・ハーディは独り言の演技を強いられる形となる。耳鳴りと独り言は『ヴェノム』の基調をなす形式的特長だ。身体1つに共存する彼らは「We(私たち)」であり、バディ(Buddy)である。だからヴェノムは不断にしゃべり続け、目の前で起こったこと、たとえば自分がたったいま人間の身体を喰らったことに対する感想を述べる。

 この不断のおしゃべりは元来、長年の仇敵スパイダーマンのトレードマークだった。スパイダーマンの特色はつねにおしゃべりしていることで、彼は敵と戦っているあいだも、街の人を救助しているあいだも、絶えずしゃべり続け、いま生起していることを実況中継してやまない。つまり、敵であり続けてきたヴェノムもまた、スパイダーマンの文化圏に棲む住人だということになる。スパイダーマンの場合、それが孤独な高校生の自己実現への希求が発声化した現象でもあるだろう。ヴェノムの場合それは、ワン・プラス・ワンがどこまで行っても「ワン・プラス・ワン」にすぎないというトートロジーの自己解釈として生起し続けている。シンビオートの声はトム・ハーディ自身が担当したが、プリプロダクション中に録音作業がおこなわれた。エディ・ブロックとシンビオートが会話するシーンでは、事前録音され、凶悪に変調された自分の声をイヤホンごしに再生しながら撮影がおこなわれた。したがってシンビオートの声はアレンジされ変調されたエディ・ブロック自身の声だということだ。

 なぜヴェノムは、ワン・プラス・ワンがどこまで行っても「ワン・プラス・ワン」にすぎないというトートロジーと戯れ続けなければならないのか。その理由はあきらかで、つまり私たち人間は残酷さを生のまま甘受するほど強靱ではなく、私たちは耐えられないからだ。重大なテロや空爆を、その現場音だけ聴かされたまま放置されるのを、私たち現代人は耐えられない。同様に人類滅亡の当日も私たちはあいかわらずテレビかインターネットの実況を聴きながら眺めることになるだろう。中には田舎に引きこもって何も見ない、何も聴かないという人はいるだろうが、そういう「自然主義者」もまた残酷さと生のまま対峙することを我慢できないのだ。ヴェノムが引き起こす人類に耐えられない残酷さを甘受するには、人類にはぜひとも実況音声が必要である。サディズムの語源となったフランスの小説家サド侯爵(1740-1814)の小説を一冊で読めば、それはあきらかだ。サド侯爵の作品には虐待、放蕩が残酷に描かれている。そしてそこには、虐待者、放蕩者による実況中継が横溢しているのだ。ただ不毛に残酷描写が続くのでは、書き手も読者も耐えられないのだろうか。とにかくスポーツ中継も真っ青という念入りさで実況中継と感想が加えられる。ヴェノムはそうしたサド侯爵の精神的な子孫にほかならない。

 ヴェノム。「彼ら」はワン・プラス・ワンがどこまで行っても「ワン・プラス・ワン」にすぎないというトートロジーを生きる。その「ワン・プラス・ワン」は加算して2としてカウントされないし、よりロマンティックな1にも変容しない。ただ、相互浸透によって捕食側に対する配慮のようなチューニングがほどこされ、サド侯爵的な不断の実況解説で捕食側を慰撫しようとしているのだ。ヘビとカエルのあいだにもわずかにツンデレ関係がある。この変化を私たちは、とりあえず2でも1でもない、「1’」と呼ぶほかはあるまい。この、いたずらじみたさりげなさで算用数字1の右肩に添えられるアポストロフィー記号こそ、トートロジーの微細な亀裂である。その亀裂をこそスクリーン上に感知しながら映画を楽しみたい。(荻野洋一)

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