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宮台真司の『A GHOST STORY』評(中編):<森>の思考が思い描く<世界>を『トロピカル・マラディ』に見る

リアルサウンド

19/1/17(木) 12:00

■『アンチクライスト』が範型だったのはなぜか

 前回はデヴィッド・ロウリー監督『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』(2017)を論じる準備として、<森>の映画の典型であるラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』(2007)を論じました。神話的にも見える夫と妻の対立が、<草原>と<森>の対立、輪郭のあるものとないもの、言葉以降と言葉以前の対立、<社会>と<世界>の対立であることを、話しました。

参考:宮台真司の『A GHOST STORY』評(前編):『アンチクライスト』に繋がる<森>の映画

 観ていて意外なのは、夫が妻に殺されて終わると思いきや、逆に夫が生き残ること。でも見終われば納得です。映画は、[<草原>から<森>へ⇒<森>から<草原>へ]即ち[<社会>から<世界>へ⇒<世界>から<社会>へ]という往還(往相と還相)を描き出していたのです。因みに僕の最初の映画論集は[<社会>から<世界>]へ、次の論集は[<世界>から<社会>へ]がモチーフです。

 往還を纏めれば、[<社会>⇒<世界>⇒<社会>]。<社会>とはコミュニケーション可能なものの全体=規定可能。<世界>とはありとあらゆる全体=規定不能。[規定可能⇒規定不能⇒規定可能]という抽象水準に注目すれば、[離陸⇒渾沌⇒着陸]という通過儀礼の図式だと分かります。そこでは渾沌による「治らない傷」が、離陸面と着陸面の差異を与えることになります。

 「治らない傷」は、リクリレーション(回復)として機能する娯楽から、アート(芸術)を区別する印でもあります。でも、僕がこの作品を<森>の映画のパラダイム(範型)を与えていると述べたのは、それだけが理由ではありません。「治らない傷」を描くと同時に、僕らに「治らない傷」をつけることで、今日のアート映画が果たすべき機能に自己言及しているからです。

 でも、それが今日要求されている機能である理由を理解するには、もう一段階必要です。それを理解すれば、『ア・ゴースト・ストーリー』が僕らのどんな要求に応えているのかが分かります。そのための「もう一段階」として、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『トロピカル・マラディ』(2004)*を検討します。「横の多視座」と「縦の多視座」がキーワードです。

*タイ語音声に英語字幕が付く版だけが存在する。タイトルは熱帯の風土病という意味。

■同じ範型の内側にある『トラピカル・マラディ』

 ウィーラセタクン監督と言えば、カンヌ国際映画祭(2010)でタイ映画史上初めてのパルムドールを受賞した『ブンミおじさんの森』(2009)が有名です。でも真の最高傑作は『トロピカル~』です。『ブンミ~』は先が読めるのが最大の難点です。『トロピカル~』は全く予見不能です。そもそも別の着想ノートに基づく前半と後半から成り立っているのです。

 前半は北部の都会イサーンを舞台にしたゲイ同士の青春劇。後半は森林警備隊員による聖なる虎の追跡劇です。前半で「仕掛ける男ケン」を演じ、後半で「虎を追う森林警備隊員」を演じるのが、俳優バンロップ・ロームノーイ。前半で「仕掛けられる男トン」を演じ、後半で「追われる虎」を演じるのが、『ブンミ~』にも出演している俳優サックダ・ケウブアディーです。

 前半冒頭、ケンを含む森林警備隊員たちの、森を背景にした草原での実務が描かれます。そのケンが、トンを見初めて「仕掛ける=追いかける」のが前半の話。ケンを演じた俳優が後半でも「追いかける」森林警備隊員を演じ、トンを演じた俳優が後半でも「追われる」虎を演じるのです。わざわざ前半と後半の間のテロップで、同じ俳優であることが示されます。

 同じ俳優に同形式のモチーフを反復させるメトニミー(換喩)。それによって前半と後半が滑らかに繋がる。メタファー(隠喩)もそれを助けます。前半=<草原>。後半=<森>。ところが前半内でも「<草原>から<森>へ」が示され、後半内でも「<草原>から<森>へ」が示されます。全体がフラクタル構造なのです。フラクタル構造自体が<森>の主題を重ねて暗示します。

 監督*によれば、映画は時間軸的に展開される記憶を用いた表現なので、前半から後半へという順になった「だけ」。後半を観て得た視座を以て、前半を観て得た視座に「再参入」する営みが、狙われているのです。具体的には、後半を観た後に前半を想起remindingすることで、前半の印象が当初とは別のものに変移するように、設計されているという訳なのです。

*James Quand ed. 2009 Apichadpong Weerasethakul, Auslarian Film Museum.

 前回『アンチクライスト』では、[<草原>/<森>]の対立が[<社会>/<世界>]の対立の隠喩でした。動態を示せば、[<草原>=<社会>]が[<森>=<世界>]に脅かされる、というモチーフです。だから[<草原>=飲み込まれるもの/<森>=飲み込むもの]と記すこともできます。そこには[<社会>=低エントロピー/<世界>=高エントロピー]という図式が重ねられているのです。*

*高エントロピー:ほうっておけばそうなってしまう状態
 低エントロピー:持続的営為で支えないと続かない状態

 今回の『トロピカル~』にもまったく同じ図式があります。<草原>/<森>。<社会>/<世界>。低エントロピー/高エントロピー。輪郭あり/輪郭なし。光/闇。非液体/液体。離散/癒合。樹木/地下茎。レペティティブ(浅さ)/フラクタル(深さ)。線形/非線形。秩序/渾沌。男/女。能動・受動/中動。生/死。規定可能/規定不能。言語以降/言語未然。

 監督は、[後半=<森>=<世界>]を感じつつ[前半=<草原>=<社会>]を体験せよと言います。すると、[<世界>に囲繞された<社会>]が浮かび上がります。それはまるで「渾沌に浮かぶ秩序の島」「非日常に浮かぶ日常の島」です。ただしそこでは[秩序=正常/渾沌=異常]なのではありません。むしろ、秩序=<社会>こそが、ありそうもない(=低エントロピーの)奇蹟なのです。

■範型の原型は記録上は初期ギリシャにまで遡る

 僕は社会学者なので、デュルケム『自殺論』(1897)を思い出します。人はふつう、無秩序(犯罪や自殺)を説明したがります。でも彼によれば、原理的に説明されるべきなのは秩序の方です。秩序こそ奇蹟だからです。それを説明するために彼は「社会的事実」「集合表象」など画期的概念を考案します。ただしこうした発想は近代では珍しいものの、古く遡れます。

 この発想は前5世紀の初期ギリシャに生まれます。彼らは地中海を挟んだセム族の構えを「エジプト的」と呼んで揶揄しました。当時は古代バビロニアが南イスラエル(ユダ王国)を滅ぼしたバビロン捕囚の頃。旧約聖書の中核が出来ました。そこでは、禍いは神の言葉(ロゴス)に逆らう「罪」に由来するとされ、罪を犯さなければ(if)禍いはなくなる(then)とされます。

 前12世紀からの「暗黒の四百年」を経験したギリシャ人は、「<世界>はそもそもデタラメである」ことを忘れないようにと、ギリシャ神話やホメロス叙事詩やギリシャ悲劇を記します。デタラメとは、大きな事柄については「ああすれば(if)こうなる(then)」という条件プログラムがあり得ないということ。<世界>のデタラメを物ともせず前に進むのが英雄だとされました。

 前5世紀(三千年前)の同時期、複数の場所で大規模定住社会(文明)が生まれました。文字が神官から行政官に拡がったからです。音声言語と違って書記言語は、近接的文脈(挙措や韻律など)に依存せず、脱文脈的に「直進」します。むしろ、近接的文脈ゆえの感染(ミメーシス)がノイズだとされます。ギリシャ人は、こうした散文言語の詩的言語*への優越を嫌いました。

*ロゴスに依る散文言語と隠喩・換喩に依る詩的言語を区別したのが言語学者ヤコブソン。

 <世界>のデタラメに抗うには不条理を物ともせずに前進する英雄への感染がロゴスよりも有効だ、とする構えを維持できたのは、比較的小規模なポリスの集合体だったからです。だから、ポリスの衰退が始まる前5世紀後半には、ソクラテスの口を借りてエジプト的なものを揶揄していたプラトンが、文脈自由な真理を導きの糸とする哲人王を賞揚しはじめます。

 ロゴスで記される統治技術が大切になったのです。その頃を代表するのがアリストテレス。ただし都市国家(ポリス)はそれを実現できず、マケドニア帝国の都市に頽落します。「秩序が正常、渾沌が異常」なる世界観が「勝利」し、最終的にはユダヤ・キリスト教的なものが近代を準備します。「渾沌が正常、秩序が奇蹟」なる構えはインドから東洋へと継がれました。

 それを象徴するのが虎。かつてシベリア・中国・朝鮮半島・東南アジア・インドに分布しました。1万年前まで日本にもいた。熱帯から温帯に跨がるそこには森が自生しました。因みに日本は、温暖化による過剰な森林化で草原が減り、獲物に飢えて虎が死滅、縄文化します。ウィーラセタクンはタイ人。男が一生に一度は出家するタイでは寺院が深い森にあります。

■合体モチーフが隠喩するのは<森>の思考である

 「<草原>から<森>へ」のモチーフに関わるフラクタル構造と、「追跡」のモチーフが、前半と後半を繋ぐと言いました。正確には「追跡と合体」です。前半は、性愛関係に関わる「追跡と合体」。後半は、虎を追っていて捕食される「追跡と合体」。森林警備隊員は、森の猿から「亡霊から解放されたいならば虎を殺せ。さもなければ食べられて虎に合体せよ」と諭されます。

 『トロピカル~』がヴィヴェイロス・デ・カストロがいうアマゾン先住民の「食人の形而上学」の具体化だと論評される所以です。同名の原著が2010年刊行なので*著作からの影響ではないものの、デ・カストロが対象とするアマゾン先住民にとってのジャガー同様、『トロピカル~』後半の虎も<森>の神として登場し、「捕食されること」が合体として表象されます。

*Eduardo Viveiros de Castro 2010 Metaphysiques cannibales, PUF, Paris.

 これは偶然の一致ではなく、<森>の思考としてのシンクロでしょう。後半冒頭、クメールの偉大なシャーマンが虎に合体したとの逸話がテロップで示されます。後半の至る所で警備隊員が追う虎が人の姿(前半のトン役が演じる)をとります。追われる虎が人との「合体」を重ねてきた<森>の神であることが暗示されるのです。そのことが名状しがたい感覚を生みます。

 それは後で論じますが、ここでは前半における性愛的な「合体」が街との「合体」として描かれていることに注目します。デ・カストロに遡っても「合体」には二方向があります。一つは「横方向の多視座化」≒「境界線の溶融」です。もう一つは「縦方向の多視座化」=「横方向の多視座を包摂する視座の上位化」です。前者が虎=最強の獣。後者が<虎>=<森>*に当たります。

*シーロ・ゲーラ監督『彷徨える河』(2016)でもジャガーがジャングルの「最強の獣」でかつジャングル(=<世界>)の「創造者」でもあるという二重性が先住民の思考として描かれる。

 その意味で「合体」モチーフは、意味というより形。内容ならぬ形式です。だから「合体」モチーフの反復は、メタファー(隠喩)ではなくメトニミー(換喩)です。隠喩はシニフィエの連合。「君は樹だ」で言えば、「キミ」のシニフィエと「キ」のシニフィエが連合します。換喩はシニフィアンの連合。「君は黄身だ」で言えば、二つの「キミ」というシニフィアンが連合します。

 詩的言語や統合失調的言語使用の中核をなす隠喩と換喩は、映画の表現技法としても使われます。「登場する誰某はマレビトを暗示する」という類の隠喩は、今もありふれていますが、円形や螺旋が連続するという類の換喩は、初期の映画史やヒッチコックにはよく見られるものの、黒沢清監督らを除けば今は珍しい。実は『トロピカル~』には換喩が満載です。

 映画史だけでなく言語史的にも換喩が隠喩に先行します。ロゴス以前的なミメーシス(摸倣的反復)を惹起するからです。意味以降の<社会>ならぬ意味未然の<世界>における用法だからです。僕は意味未然に惹かれました。80年代後半は『深夜特急』を契機に第1次バックパッカー・ブームになりましたが(十年後が「猿岩石」の第2次ブーム)、影響をまともに喰らったからです。

 <社会>から<世界>を目指す場合、北(峻厳な自然)を目指す人と、南(主体未然の街)を目指す人がいます。凶悪犯罪者でも思想犯は北、ヤクザは南を目指します*。僕は後者。幾度もタイに出かけました。首都バンコックも夜は目貫通りが屋台だらけ。バイクは四人が乗ってノーヘル。歩行者優先はなく、治療費の方が高いので轢かれたら逃げなければ殺されます。

*田口ランディ・宮台「<世界>を経由して<社会>に戻る道すじ」(『生きる意味を教えてください』2008所収)で詳論した。一部を「http://www.miyadai.com/index.php?itemid=539」で読める。

 初回から敢えて何も調べずに「夏だからプーケット」と出かけたら、雨期の高波で泳げず、「泳げるビーチに行きたい」と現地ガイドに頼んだら、8人乗モーターボートに僕を乗せて5m以上の高波で荒れる外洋に乗り出しました。「ここで死んでも誰も気づかないな」と思った瞬間、大きな解放感が拡がりました。やがてラグーン到着。後にピピ・レ島だと知ります*。

*ダニー・ボイル監督『ザ・ビーチ』(2000年)を観て「ここだ」と思って調べて分かった。

 パタヤの街も鮮烈でした。鮮やかなネオン。賑やかな宴の声。バイクの音。排ガスの匂いが混じった屋台の匂い。突然のスコール。立ちこめる湯気。そう。「微熱感に包まれた街」。全てが夢のよう。この経験が80年代後半からのナンパやフィールドワークに繫がります。当時の渋谷も「微熱の街」。「微熱の街」を共有するので目が合うだけで仲良くなれるのでした。

 80年代半からナンパを始めた理由は、劣等感にありました。本を読んで論文を書くだけの院生には生活がなく、クソ社会を皆がどう生きてるのか分からない。高級マンションに住む商社マンの人妻はDVに悩んでいた。見事な軆をボディコンに包んだ女は彼氏が覚醒剤で服役していた。優等生の女子高生は援交していた…。僕は全てになり切って多視座化しました。

 96年夏までは単数の時間ならぬ複数の時間が流れていました。援交女子高生の視座。チーマーの視座。ブルセラ・デークラ店長の視座。客の男の視座。何を知らずに街を歩く人の視座。フィールドワークを通じても僕は多視座化しました。交わらないはずの複数の視座を同時に取得できたのです。それが96年夏を境に「微熱の街」が終わって、僕は鬱化しました。

 20余年前、渋谷が冷えた頃にバンコクも冷えました。ジェントリフィケーション*で屋台が整理され、四人乗りノーヘルのバイクもなくなります。2004年公開『トロピカル~』が描く北部の都会イサーンは、冷える前の「微熱の街」バンコクと全く同じ匂いと色彩と音を感じさせます。それから15年。イサーン最後の「置屋」も閉鎖されてしまったそうです**。

*観光価値や不動産価値を上げるための「環境浄化」をジェントリフィケーションという。
*イサーンでロケをした映画『バンコクナイツ』(2017)の富田克也監督から伺った。

■「微熱の街」の万華鏡で視座が邂逅して合体する

 『トロピカル~』は、森を背景とした草原でのケンを含む森林警備隊員らの実働ぶりから始まります。草原と森の対比が全体モチーフを暗示することは話しましたが、その直後、トンの実家での夕餉が珠玉の場面です。この段階ではまだケンとトンとの関係は描かれていませんが、映画の前半に満ちている「視線の邂逅」というモチーフが魅惑的に描かれています。

 屋外の夕餉に集まっているのは七人ほど。家族親族以外も混ざっているらしい。まず若い男女の視線が邂逅します。トンの母親が視線と視線の交わりを確認して何か思ったようです。次にケンの視線がトンに注がれています。やはれ母親がそれをチェックして何か思ったようです。視線の邂逅で一瞬の閉鎖的時空が成立します。母親以外は誰も知りません。

 視線の邂逅というモチーフを引き継ぐのが、続く場面。バスに座席にいるトンの向かいに女がいます。視線が邂逅します。女が恥じらいつつ微笑み、トンが笑みを返します。誘い誘われ。どちらが誘いどちらが誘われているのか分かりません。窓外から数多の街頭音が聞こえます。大音量の演説。歌謡曲。コールされて携帯で話す女の仕草は細部までエロチックです。

 森の蜜蜂と花の関係を思わせます。花が蜜蜂を誘います。蜜蜂が花を訪れます。蜜蜂は訪れるものの誘われています。花は訪れを待ちますが誘っています。女が男を見ます。男が視線に気づきます。女が誘います。男が女を訪れます。男は訪れるが誘われています。女は訪れを待ちますが誘っています。そこでは能動と受動が両義的です。すなわち中動態的です。

 監督は知っているのです。2004年のイサーンが1989年のバンコクであることを。ほどなく「微熱の街」が冷え切ることを。先に話したように実際ジェントリフィケーションが進みました。ロウ・イエ監督『スプリング・フィーバー』(2009)と同じで、そこには「視線の邂逅を喪失した未来」からの眼差しがあります。「微熱の街」イサーンも南京も必ず失われるのです。

 僕の3番目の子(長男)は3歳の頃からこんな営みを繰り返していました。女性を見つめます。女性が視線を合わせます。彼がニッコリします。女性が笑みを返します。女性が話しかけます。彼が応じます。以前ラジオで紹介しました。90年代半ばまでの渋谷での僕や同世代の男たちの営みです。僕のナンパやフィールドワークも中動性の時空が可能にしたものです。

 「微熱の街バンコク」が失われた90年代半ば、「微熱の街渋谷」も失われました。視線の邂逅=中動態的合体が失われたのです。70年代末の男子大学生のナンパ経験率は今の3倍でしたが、たぶん「人の変化」というより「街の変化」です。僕(や同世代)は変わっていないのに、かつての振る舞いができないからです。誘い誘われのコール&レスポンスがあり得いからです。

 「微熱の街」とは「視線の邂逅=中動的合体」が生じる時空のこと。だから何でもあり得ました。昭和のナンパを特集した『フラッシュ』2014年1月号*で、親しかったナンパ師たちと思い出を語りましたが、ナンパして30分後に屋上や非常階段や空きフロアーで物理的な合体もあり得ました。福永ケージ。鈴木陽司。僕と同年齢の伝説のハメ撮りカメラマンでした。

*この特集記事を宮台真司が監修した。

 この特集、僕の同年齢の読者からの抗議が来ました。渋谷がそんな街だったはずがないと。つまり同じ物理的時空なのに経験的時空が乖離していた訳です。映画の冒頭近くに描かれた「視線の邂逅=中動的合体」による閉鎖時空が恐らくポイントなのです。そこに閉鎖時空が生じても誰も気づかないのです。視線が邂逅する者たちの渋谷/そうでない者たちの渋谷。

 個体は能動と受動のユニットです。でも視線の邂逅で他の個体と中動的に合体して個体が消えます。<社会>から<世界>へと逃げる場合、「北」に逃げる者は、峻厳なる自然に浸透されることで個体が消えて解放されます。「南」に逃げる者は、視線の邂逅による中動的合体で個体が消えて解放されます。視線の邂逅で輪郭が膨縮する「微熱の街」は<森>という<世界>です。

 閉鎖時空としての2人ユニットが成立すると、見えるのは個体たちですが、実在するのは2人ユニットです。その2人ユニットも、夜の公園やラブホで、別の個体や、別のカップル=2人ユニットと視線が邂逅すると、見えるのは複数の個体でも、実在するのは3人ユニットや4人ユニットになります。それが先に続く『フラッシュ』2014年4月号「覗き」特集でした*。

*この特集記事も宮台真司が監修した。

 僕が、「言葉の自動機械」でも「法の奴隷」でもない人間や、人工知能(AI)から遠く離れた人間をイメージする場合、性愛に限らず、1人ユニットになったり2人ユニットになったり3人ユニットになったり…と膨縮する可能性を真っ先に想起します。能動受動ユニットが、視線の邂逅を通じて中動的合体を遂げ、より大きな能動受動ユニットを構成するという営みです。

 ここ十数年、人類学の存在論的展開を経た御蔭で、遊動民や先住民やその作法を継承する狩猟者の語り(の紹介)に触れる機会が増えました。レーン・ウィラースレフやヴィヴェイロス・デ・カストロや服部文祥や奥野克巳などです。人と熊や鹿や狐の間で視線が邂逅します。すると「犬が人を見れば人になり、人が犬を見れば犬になる」(ヴィヴェイロス・デ・カストロ)のです。

 というと遠い昔の話と思われがちです。でも、視線が邂逅する街、見る・見られるが輻輳する街、<森>のような「微熱の街」は、『トロピカル~』のイサーンや90年代半ばまでのバンコクや渋谷のように最近まで実在しました。<森>だった街を実際に経験した僕ら世代も今実在します。「微熱の街」が冷えて「言葉の自動機械」や「法の奴隷」が増殖したのが平成なのです。

 イサーン外れの田舎で家族といるトン。バスに乗るトン。製氷工場で働くトン。サッカーで仲間と戯れるトン。夜の屋台街でケンといるトン。一人で食事するトン。ゲームセンターで見ず知らずにアドバイスするトン。モダンな動物病院のトン。一人のトンに見えて、各場所でそれぞれ別の者たちと共在することで、異なる視座をとる複数のトンになります。

 そこでは街もトンも万華鏡です。そんなトンに近づこうとするケン。二人を万華鏡みたいな「微熱の街」が包みます。というと感動的なのは、先のゲーセンでトンを見つけたケンが二人でゲーセンから出て屋台街に繰り出す場面。バイクと人声と歌謡曲が入り交じった街頭音。万華鏡のように屋台の照明たち。二人が理由なく親密になるのは当然です。

 ゲーセンを出た二人は人混みを縫って歩きながら睦言を交わします。不意に涙が出ました。僕たちは少し前までは「微熱の街」に包まれていました。行きずりで出会っても歩きながら睦言を交わせました。かつて街はどこもそういう時空でした。でも既に話したようにどこも例外なく冷えました。政策の間違いなどよりも本質的で普遍的な理由があるはずなのです。

【次回は『トロピカル・マラディ』後半と『ア・ゴースト・ストーリー』を繋げて論じます】(宮台真司)

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