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関心を持たないことで事態が悪化していく怖ろしさ 稲垣吾郎『半世界』の“何かがおかしい”雰囲気

リアルサウンド

19/2/20(水) 10:00

 事務所を独立後も精力的に映画やドラマ、舞台に出演している稲垣吾郎。今回彼が演じた男“高村紘”は、なんとなく実家の家業を継いで、そろそろ40代に手が届こうとする炭焼き職人だ。彼は山で木材を集め、窯で炭を作っては得意先に売りに行き、妻(池脇千鶴)と息子の暮らすわが家へと帰って行く。ありふれた田舎の風景のなかで仕事を続けながら、小さないざこざに巻き込まれたり、ささやかな気晴らしをするような平凡な毎日を送っている。そんな日常が描かれていく映画が、本作『半世界』である。

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 だが、この作品、何かがおかしい。日常をゆるいユーモアと小さなトラブルともに淡々と描きながらも、その底では何か不気味で異様なものが流れ続けている……そんな雰囲気があるのだ。ここでは、一見すると穏やかに見える本作が、実際には何を描いていたのかを考察していきたい。

 キーマンとなるのは長谷川博己が演じる、久しぶりに地元へと戻ってきた、紘の中学生時代の同級生・瑛介だ。仕事を辞めて離婚したという彼は、陰鬱なムードを漂わせながら、懐かしい親友たちとも極力会おうとせず、人目を避けて古い一軒家に暮らし始める。そんな態度をいぶかしく思う紘は、瑛介を無理に連れ出して一緒に酒を飲んだり、炭焼き仕事を手伝わせたりするなかで、瑛介に何があったのかを理解しようとする。

 そこで明らかになってくるのが、瑛介が自衛官として海外に派遣され、部下を失う悲劇を体験していたという過去だ。心に深い傷を負った瑛介は、帰国後も後遺症によって精神的に不安定な生活を余儀なくされていた。本作は、そんな傷ついた心を日本の故郷や風土が癒してくれるというような映画ではない。瑛介は、故郷でもうまくやることができず姿を消してしまうのだ。

 日本にいながら瑛介の心の半分ほどは、海を越えた戦地にとらわれているように感じられる。だが、その姿に共感し、真に寄り添えるような人間は、退職した瑛介の周りにはいない。現実に武力紛争は、いまも中東やアフリカなどの地域で進行している。日本社会において、危険な地域へと派遣される自衛官、ジャーナリスト、ボランティア、その家族以外の日本人のなかで、そこで起こる戦闘や被害について、現実そのものとして受け止めている人がどのくらいいるのだろうか。

 日本社会のなかにいると、そういった問題は日常と切り離されているように思える。多くの人々は、そのようなTV画面のなかで起こっている悲劇よりも、自分の生活で精一杯なのが現実である。だから瑛介は、日本のどこにいても孤独な思いを味わっていたのだろう。だが実際に一部の日本人が海外に行き、目の当たりにしている悲惨な状況もまた、もう一つの現実だということも事実なのだ。そして湾岸戦争など他国の戦争への多額の拠出や、兵器の購入、自衛隊海外派遣まつわる問題などが示すように、実際には日本の政治状況を通して、一般の国民はこの現実にじつは関わっているのである。

 “知ろうとしない”という要素は、紘の息子との小さな関係にも描かれる。紘は息子が学校でいじめを受けているというシリアスな現実から目を背け、「何でもないこと」だと思い込もうとする。だがそんな無責任な行動は、もちろん事態の解決につながるわけはなく、いたずらに息子からの信頼を裏切るだけだった。これは、まさにいじめを隠蔽する学校や教師の態度と同じものであり、日本の無責任さを象徴する構図である。

 日本のひとつの地域の平和な日常。その平和さとは、じつは目を閉じて耳をふさぐことで得られる、偽りの平和なのではないのか。そんな環境に馴染むことのできない瑛介は、いびつな状況を可視化する存在になっている。本作の監督を務めた阪本順治はこのように、外部に無関心な人々によって作り出される世界を映し出すことによって、日本の問題を、リアリティを持ってあぶり出している。これは非常にユニークなアプローチである。

 本作がこのようなテーマを扱っているというのは、“半世界”というタイトルからも理解できる。公表されているように、これは戦前から活躍していた写真家・小石清の連作のタイトルからとられている。もともと前衛的な手法で写真を撮っていた小石は、戦時下において日中戦争に従軍した際に撮影した連作「半世界」で実験的な写真を発表していて、現在ではその一部に反戦的なテーマがあったと考えられている。その後、小石は前衛性を抑え、従軍先の現地の人々の自然な姿をカメラに収めてもいる。

 映画『半世界』はそれだけでは終わらない。この物語を印象的にしているのは、ある重要な登場人物に大変な事態が起こるという、意外な展開によってである。これは一体、何を意味しているのだろうか。

 その出来事の後、「あちら側も“世界”だが、こちら側も“世界”だ」ということが語られるように、半分に分けられた内側だけの世界が、ここにきて存在感を発揮し始める。紘の過酷な炭焼きの仕事に代表されるように、日本の伝統的な産業は、後継者問題、需要の変化などで危機に瀕している。また本作に描かれた地域の過疎化や、いじめ、親子の断絶など、それらもまた深刻な問題として日本社会にのしかかっているのは確かなことだ。

 では本作が、「世界も大変なように、日本も大変なんだ」ということを言いたいのかというと、それは少し異なるように思える。ここで描かれた日本の諸問題が、世界にも共通するところが多いように、世界で起こっていることもまた、日本に関連する問題なのだ。本作が描くのは、それらが“切り離されている”と考える人々の思い込みだ。そしてまた、世界に対しても周囲の問題についても“関心を持たない”ことで事態が悪化していく怖ろしさである。目や耳をふさいだとしても、問題自体は目の前に存在しているのだ。『半世界』は、そのことに気づくきっかけとなり得る作品である。(小野寺系)