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内田裕也のロックとは何だったのか? 「シェキナベイベー」ディコンストラクション

リアルサウンド

19/4/6(土) 8:00

 2019年3月17日、内田裕也が亡くなった。その日以来、マス、ソーシャルを問わずメディアにおいて多くの追悼の声が上がっている。生前の活動の幅広さと人々の印象の大きさを裏付けるように、様々な種類のコメントが揃った印象だ。4月3日には東京・青山葬儀所にて「内田裕也 Rock’n Roll葬」が執り行われ、関係者約950人、一般参列者750人が内田の死を悼んだ。そうした追悼の声も静かになりつつある時期に記すこのテキストは、内田裕也の生涯を要約しようとするものではない。ただ、私の専門であるダンスミュージック/ヒップホップとの関わりにおいて、内田裕也のやってのけたことを少し振り返ってみる。

(関連:内田裕也「いいとも」でロック魂を熱弁 「骨は折れても、心は折れてない」

 内田裕也が主催し、彼自身やキャロル、加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド、カルメン・マキ&OZなどが出演した、1973年の大晦日から1974年の元旦にかけて西武劇場で行われた年越しロックイベント『フラッシュ・コンサート』は、会場や名称を変えながらも毎年開催され、今年の元旦には第46回目となる『NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL』が行われている。また、1964年に尾藤イサオとのコンビで発表したカバー曲「ツイスト・アンド・シャウト」で、〈Shake it up, baby〉と歌い出してからちょうど50年後には、指原莉乃とのフィーチャリング曲「シェキナベイベー」をリリースしている。こうした一側面を挙げるだけでも、その人生のパブリックな部分は、ほぼ初めから終わりまで彼自身の言葉を借りるなら「俺(達)はROCK’N ROLL」であった。

 内田裕也という人物は、日本にロックを輸入して移植することにその人生を費やしたといっていい。であるなら、この人物のポップミュージックの領域での足跡の意味を掴むには、ロックンロールを知らなくてはいけない。そして、世の多くの人が理解していないのは、内田裕也という人物はもとより、まずロックンロールとは何かということではないだろうか。

 ロックンロールの誕生と言われるBill Haley & His Cometsの「Rock Around The Clock」(1954年)、もしくは当時の日本人が受け取ったであろうその雰囲気を今に伝える、同曲から翻案された映画『暴力教室』(原題『Blackboard Jungle』1955年)以来、内田裕也がリリースしたアルバムでいうならFlower Travellin’ Bandの『Make Up』(1973年)辺りの時代まで、ロックの中心にいたのは新世代の若者たちだった。彼らは、左翼的なイデオロギーによってーー東大安田講堂への立て籠もりのようにーー旧世代の権威が打ち壊されていったのを目撃し、ロックンロールをグローバルなメディア、来るべき時代の新しい言語として捉えていた。

 ポップミュージックの歴史のなかで、ロックンロールはその始まりからアイドル文化といちゃいちゃしながら、ゆえに多分にお仕着せのセックスを見せびらかし匂わせながら、1960年代というカウンターカルチャーの時代の空気をたっぷり吸い込んで育っていった。なぜ内田裕也はロックに魅せられたのか。ロックンロールは学生のものだ。ロックバンドの編成からして、アイドルというビジネスと、内田裕也たちの数年前に「ツイスト・アンド・シャウト」を歌ったThe Beatlesのジョン・レノンが「Power To The People」と宣託したような時代精神がごちゃ混ぜになったものだった。銃口に花束を、戦争ではなく愛をーー当初は左翼的なティーンの理想主義と共にあり、またその具現化でもあった。それでも内田裕也は、その英語圏を中心とした学生の美学と社会的な意識が畳み込まれたコンセプトを、日本という国に持ち込む際に十分な美意識と才能を持っていた。アルバム『ロック・サーフィン・ホット・ロッド』に収録された「ツイスト・アンド・シャウト」は、数年後に起きたグラムロックのシアトリカルな美意識へと繋がるように響いた。その翌年には、音楽的な感覚の鋭さと日本の現実を知るバランス感覚で、The Rolling Stonesの「Heart of Stone」をカバーした。

「俺だって酔っちゃうとメチャクチャになっちゃうしね(中略)、ロックンローラーで年中理性的な奴なんて俺は信じられないなぁー。そういう多面性の中で自己葛藤みたいなことがあるじゃないですか? 俺は好きだけどね、そういうジキル&ハイドみたいの」(鳥井賀句『定本ストーンズ・ジェネレーション』JICC出版局/1986年)

 ミック・ジャガーの二面性のついて尋ねられた内田は、それこそがロックンロールにとっての文学性の可能性の在り処だと指摘していたのだ。この指摘は、ジャガーやルー・リードがフランスの象徴派詩の影響を受けて歌詞に織り込んだ悪魔やドラッグを、日本の空間と時間のなかで“リアルに演じる”ということに関連してくる。同時に、もしロックがグローバルなメディアであるなら、日本のロックも海外のロックもないはずで、そうしたこと一切を極めてコンセプチュアルに一つ一つ実現していったのが、内田裕也率いるFLOWER TRAVELLIN’ BANDの何枚かのアルバムなのである(FLOWER TRAVELLIN’ BANDの海外での評価を知るには、英ミュージシャンのジュリアン・コープが日本のロック史をキャノンのカメラ一台を持って辿り直した労作『ジャップ・ロック・サンプラー』を参照してほしい。興奮を抑えきれない言葉遣いでFLOWER TRAVELLIN’ BANDが讃えられている)。

 しかし、ロックの巡礼者たる内田ゆえにその巡礼遍歴の限界は見えなかった。彼の予想より遥かに早く、グローバルで左翼的な理想主義を掲げたティーンたちのロックは終わっていったのだ。内田裕也への追悼として、ポピュラー音楽研究家の増田聡氏がTwitterで的確に述べていたように、『日本語ロック論争』は日本語ロックの可否を論じたものではない。イデオロギーについての、時代の趨勢を左右する考えについての論争である。そして増田氏が以前、その著書 『聴衆をつくるーー音楽批評の解体文法』(青土社/2006年)でも指摘したように、論争ののちの時代、内田が熱望して思い描いていたロックは結局、日本では起こらなかった。

 1970年代半ば以降、日本では“産業ロック”、英語圏では“アリーナロック”、“コーポレートロック”と呼ばれる種類のバンドが全盛期を迎えていた。商業的な成功、つまり集客力を誇りながら、内田と同世代で”ロックンロール”していたのは、『Love You Live』、『Some Girls』、『Emotional Rescue』といった作品群で、新しいテクノロジーを使いこなしながら自分たちの出発点であるリズム&ブルースを巧みに召喚し続けることに成功していたThe Rolling Stonesのほか、数えるほどしかいなかっただろう。同時期の内田は、ジョン・レノンが1975年に発表したアルバム『Rock’N’Roll』の方法論を踏襲したパフォーマンスを続けながら、レコーディング作品では頭脳警察のPANTAが書いた内田の代表曲「コミック雑誌なんかいらない」などの楽曲で”ロックンロールのソングライティングをアップデートしようと試みていた。

 『日本語ロック論争』について、後からやって来て内田裕也を審問しようとする人々が見逃している単純な歴史的事実がある。その重要な登場人物の1人、細野晴臣がYellow Magic Orchestraで、マーティン・デニーの「Fire Cracker」をシンセサイザーを使ったエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売ったことーーつまり、グローバルな共通基盤としてのダンスミュージックの実践において、英語を使ったということだ。その後、小室哲哉からSuchmosまで、ダンスを意識しながら極私的でドメスティックとされるものとグローバルな成功を求めるものとの中間に位置するアーティストはすべて英語と日本語を併用している。2010年代の終わり以降も、それはまだまだ続くだろう。

 彼が1964年に歌った〈Shake it up, baby〉の日本人アクセントは、〈シェキナベイベー〉とカタカナで強調されテレビで流布されていた。ロックンローラーというより、芸能人というイメージの方が先に立つような見せ方でもあったが、そうした扱いにことさら苛立つ様子も見せなかったのは、彼が日本のシステムを熟知していたからであろう。カタカナの〈シェキナベイベー〉も、テレビという装置のなかでの異化作用として、意識的に放っておいたように思えるのだ。あの頃、みんなが信仰していた”ロックンロール”が、時代における異化作用だったとするならば。

 内田裕也さん、安らかに。(荏開津広)

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