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小野寺系の『ちいさな英雄』評:監督たちの才能とスタジオポノックの未来を読む

リアルサウンド

18/9/6(木) 10:00

「ポンポンポン、ポノック、スッタッジッオ、ポノック♪」

 木村カエラが景気よく歌うオープニングテーマ曲から始まる、ポノック短編劇場『ちいさな英雄―カニとタマゴと透明人間―』。スタジオジブリが継続的な長編作品制作を終了したことにともなって、退社したスタッフやプロデューサーによって設立されたスタジオポノックによる、劇場用の短編オムニバス作品だ。その性質上、当初は小さな規模で公開される予定だったというが、大手各社による配給・宣伝の判断により、最終的に全国で100館以上に拡大されての公開となった。

 スタジオポノックといえば、長編第一作『メアリと魔女の花』(2017年)が記憶に新しい。この作品については以前に批評しているが、率直に言うと感心できない内容だった。なるほど、日本の多くの手描きアニメーション作品のなかでは良く動いているといえるが、演出や脚本、キャラクター造形や美術のセンス、そしてテーマの奥行きの無さなど、残念ながら高畑勲監督・宮崎駿監督が主導して構築してきたブランドの雰囲気だけを表面にまとってはいるものの、きわめて内容の希薄なものとしか感じられなかった。(参考:小野寺系の『メアリと魔女の花』評:“ジブリの精神”は本当に受け継がれたのか?

 だが今回は、『メアリと魔女の花』の米林宏昌監督以外にも、とくに高畑勲監督の作品を多く手がけてきた百瀬義行、宮崎駿監督作のスタッフだった山下明彦が、新たにそれぞれ短編の監督を務めている。ならば最大の注目点は、「ポノックのなかに監督としての才能を持ったスタッフがいるのか」という疑問であろう。

 よく「ジブリは後継者を育てなかった」といわれる。実際にジブリの制作部門が解散したことが示すように、高畑・宮崎監督のレベルにとどく天才的な才能を持ったアニメ作家が生まれなかったというのである。これはスタジオジブリ出身のスタッフたちにとっては屈辱的な意見であろう。しかし、ここで一発、面白い作品を作ることができれば、そういった世評を覆すことができるはずである。少なくとも、今後につながるような可能性を見せてほしい。ここではその部分を焦点としながら、短編3作をそれぞれ個別に批評し、監督問題とスタジオポノックの未来をうらなっていきたいと思う。

米林宏昌監督『カニーニとカニーノ』(18分)

 トップバッターとなるのは、『メアリと魔女の花』を手がけた米林監督による、川底に住むサワガ二の一家の物語を描く作品だ。鑑賞後に意外に思ったのだが、この作品が3作中で最も上映時間が長い。にも関わらず、これが最も印象に残らず内容が薄いと感じる。

 セリフは、ほぼ名前を呼び合うくらいしかないため実験的な印象もあるが、彼ら擬人化されたカニのキャラクターからは、マニュアル化されたような単純な感情しか感じられない。『メアリと魔女の花』の登場人物たちと同様、主人公たちは何か“それらしい”行動をしているが、そこに(擬人化された)人間の生(なま)の感情を感じることはなく、あたかもロボットの反応を見ているようなのである。そのため本作は、ドラマとしての価値を認めにくい。

 すでにマニュアル化され形骸化されたような演技や演出しか出てこないのは、おそらく監督がアニメ作品を通しての感情にしか興味が無いからかもしれない。そういう意味では、今回の3作品の監督のうち最も演出のキャリアがありながら、皮肉にもいちばん監督としての適性に欠けているのが米林宏昌監督だと感じてしまう。

 また依然として、ユーモアやサービス精神の欠如は深刻だ。本作のような冒険を描く作品であれば、最低限は観客をエンジョイさせてほしい。この作品に「面白い」、「楽しい」といえるような箇所が一つでもあるだろうか。快感も不快感もない。上映中はただ事務的な時間が淡々と過ぎてゆくのみだ。3作品中では比較的「子ども向け」の作品だから単純な内容になったのかもしれないが、単純だからとはいえ、内容が薄くて良いということにはならないだろう。もし本作が「子ども向け」だから「こんなもので良い」と思っているのだとすれば、あまりに子どもを侮り過ぎているのではないだろうか。

 そのわりに、不可解かつ不必要なシーンは多い。例えばサワガニの兄妹が岩に登ると、なぜかリアルに表現されたタヌキが飛び出してくる箇所があるが、この場面が作品にどのような寄与をしているのか答えられる観客がいるだろうか。高畑監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』へのオマージュだとしても、なぜそれをここで出してくるのか頭を抱えてしまう。こんな不満が出てきてしまうのも、その場面に面白さやユーモアといったものが全く欠けているからである。タヌキのリアルな動きを精巧に表現した作画作業は、全くの徒労としか思えない。

 最もがっかりさせられたのは、兄妹が巨大な敵に追われるスペクタクル・シーンだ。ここで目を疑ったのは、敵に追いつかれそうになって焦って泳ぐという最もスリリングな場面を、兄妹と敵それぞれを“別に”映した2つのカットに分け、その背景をスピード感のある流線で表すという演出だった。これでは彼らの距離感覚がつかめず、ドキドキも発生しにくい。なぜ最も盛り上げなければならない場面で、このように紙芝居的ともいえる演出を選択してしまったのか。手描きアニメの技術とリッチなアニメーションが“売り”であるはずのスタジオポノックの存在意義そのものを、監督自身が否定しているように感じられた瞬間である。タヌキのシーンに無駄な労力を割くよりも、ここに力を投入すればならなかったのではないだろうか。

 見どころとなるのは、CGを使ったリアルな水流であろうか。実写のように見える水面の描写が必要かどうかは賛否が分かれそうだが、複雑な形状をした沢で、水中の水の流れが手前と奥で違うなど、奥行きある立体的な動きをしているところは、実際の水中をよく観察しているという印象を持った。

 百瀬義行監督『サムライエッグ』(16分)

 水彩で描かれた絵本のような印象的な色彩と、太めの輪郭線で描かれるのは、極度のたまごアレルギーに悩む少年と、その母の物語だ。百瀬義行監督は、高畑監督の作品に多く参加していたことを活かすように、「生活を丹念に描くこと」、「新しいヴィジュアルを目指すこと」の2点をおさえている。その意味では、見方によっては高畑監督の後継者として名乗りをあげているようにも感じられる。

 当然といえば当然だが、ここでは米林監督のような、ぎくしゃくとして違和感のある登場人物の演技は見られないため、安心してドラマに集中でき、ホッと一息つけるといったところだ。

 本作が題材にするのは、社会問題となっている食物アレルギー。私も知人に、食物アレルギーを持った子を育てる親がいるので、その大変さは想像できるが、死のリスクすらあるアレルギーを持った子どもがどれほどつらいのか、日々の生活の忙しさのなかで目を光らせ続けなければならない親がどれだけ大変なのかが、ここではこれでもかと描写され、観客にアレルギーのやっかいさ、そしてそこから見えてくる親子の結びつきなどが強く印象づけられる。

 「アレルギーはただの甘え」であるかのような偏見に基づく発言を、いまだに耳にすることがあるように、当人にとってのアレルギーのおそろしさを深刻に描いた本作の題材には、社会的な意義があるだろう。だが娯楽作品としては、観客の熱量が高まりカタルシスを得るような脚本になっていないと思える。とくにクライマックスに配置されたエピソードが弱い。

 絵本のような絵柄についても、印象深くはあるが、完全に成功しているとは言い難い。輪郭線を太く描くというキャラクター設定が、繊細なタッチや色彩の美しさを殺しているように感じられるのである。新しいヴィジュアルを模索するという試みは評価できるものの、最適な着地点にはまだ到達していないと思われる。

 アレルギーによって深刻な状態になる何度かのシーンは、画面の全てが動くフルアニメーションで表現される。そのごく短い部分はたしかに圧巻であるといえる。しかし、かつて「ジブリ美術館ライブラリー 第一回劇場提供作品」として、日本で紹介されたアレクサンドル・ペトロフ監督の『春のめざめ』(2006年)が、全編を油彩の連続によって描いた、狂気すら感じる傑作だったように、そのようなアニメーション表現を魅力として押し出すのであれば、『サムライエッグ』のアニメーションとして見どころとなる場面はあまりにも短すぎると感じる。

 これは贅沢な要求だろうか。しかし、本作と同年に上映された宮崎駿監督の『毛虫のボロ』、それから高畑監督もリスペクトするフレデリック・バック監督、ミッシェル・オスロ監督、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督など、優れた短編アニメーションを制作してきた海外の巨匠たちの作品には、観客が望むもの以上の突出したシーンの連続によって、脳内のキャパシティーを超えた快感を与えてくれる。

 私は、それを望むことが酷だとは思わない。なぜなら本作は、通常より安い特別料金とはいっても、立派な劇場公開作品である。そこには無料で見られるTVアニメを超えて、わざわざ劇場に出向くほどの価値が無くてはならないはずだ。観客には「スタジオを育てていく」ような義理も責任もない。面白ければ見るし、つまらなければ見ない。芸術的に突出した魅力がなければ、アート・アニメーションの愛好家や批評家も反応しにくい。その意味で本作は、娯楽としてもアートとしても中途半端な印象があった。

山下明彦監督『透明人間』(14分)

 今回のポノック短編劇場のなかでは、明らかに最も優れた作品である。スケッチ風の強弱のついた輪郭線は、線描の美しさが活かされることで、手描きアニメーションとしての魅力が発揮され、全体的に抑えた色調がセンスの良さを感じさせる。そして数は多くないものの、ちゃんと笑えるようなシーンが用意されているのが嬉しい。いままでのスタジオポノック作品において、ユーモアがユーモアとして機能したのは、これが最初なのではないだろうか。3作品のなかで唯一、海外の映画賞に出品しても存在感を発揮できる短編作品だと感じられる。

 山下明彦監督は、宮崎駿監督の作品に多く参加しているように、ここでは天才アニメーターとしての宮崎駿を継承しようとするようなアニメーション表現がいくつも見られる。浮揚感、飛翔感、スピード感、重量感など、観る者の感覚にうったえかける表現が主軸となるので、観客は引き込まれるだろう。また、主人公の透明人間としての特徴が、それらのシーン随所に活かされていて、しっかりと“面白さ”が発生している。

 各シーンの描写を見ていると、ここでの「透明人間」とは、“誰からも認知されないほど存在感のない人物”であるようだ。見た目や性格に個性がない。優れた能力がない。特殊な技能がない。明確な目的を持っていない。だから他人に見向きもされない。現代に生きる多くの個人にとって、それは深刻な問題である。本作の透明人間が、消火栓のように重いものを持っていなければ、風に吹き飛ばされてしまうほど重みがないという描写は、厳しい現実のなかで、かろうじて社会性を保とうと奮闘する、大勢の人間の姿である。

 同時に、これはおそらく監督自身が投影された物語でもあるだろう。本作に登場する、田中泯が演じる老紳士は宮崎駿監督にそっくりに見える。老紳士は唯一、透明人間の存在を認めてくれる人物だ。自分はアニメーション以外の世界では存在感を発揮できないが、天才アニメーターであり巨匠監督でもある宮崎駿に評価されたことで、自分の価値を発見するきっかけが与えられた、ということをここでは表現しているのではないだろうか。

 そして見知らぬ子どものために身を投げ出し、精一杯、子どもを喜ばせようとする透明人間の姿が表すのは、観客である子どもが喜んでくれることで、自分自身の存在意義を感じられるようになったという意味だと思える。人を救うことで自分も救われるというテーマには普遍性がある。とはいえ、子どもが喜んでくれることに存在意義を感じるようになったという内容にも関わらず、本作そのものは暗く陰鬱な雰囲気が支配していて、子どもが喜びそうな要素が希薄なのは、なぜなのだろうか。

 本作と同時期に公開されたアニメ映画に、スタジオコロリドの『ペンギン・ハイウェイ』がある。その石田祐康監督が大学時代に自主制作した作品『フミコの告白』(2009年)を、ここで比較対象として持ち出したい。

 これは、意中の男子生徒にフラれた女学生がショックを受けて坂道を駆け下りていくと、ものすごい加速がついてしまい、止められなくなるというだけの内容である。この作品の作画技術は、『透明人間』のそれには遠く及ばないかもしれない。だが客観的に判断して、こちらを上映した方が観客を沸かせることができるだろうし、話題になっていたと思われる。なぜなら、そこには一点突破の“過剰さ”が存在するからだ。

 いま自分やスタッフができる技術、予算や時間などを勘案した上で、「こうすれば観客を楽しませる作品になる」という一種の勘を働かせ、できる限りの最大限の効果を導き出すために注力する部分を決める。完全に狙ったものなのかどうかは分からないが、『フミコの告白』はそれを達成できている作品として、一つの手本になるように思える。もし、スタジオポノックが『フミコの告白』のような過剰さを持つアニメーションを本気になって制作すれば、もっともっとすごいものを作ることができるはずである。

 30代後半で宮崎監督が『ルパン三世 カリオストロの城』を手がけたとき、彼は世界の経済が株式で動くようになった時代に、いまどき泥棒がお宝を盗むような、スケールの小さな内容は時代遅れだと考えたという。だからエンディングにおいて銭形警部が「あなたの心です」と語るように、最終的に無形のものを盗むというかたちに至ったはずである。監督として何を描くべきか、どうすればより普遍的で意義のある作品を作ることができるのか。作品の内容を統括する監督には、そういうヴィジョンや哲学が必要なのだ。それがなければ、いかに優秀なスタッフが集まったとしても、その仕事は最高の結果を生み出してはくれない。

 であれば、それを統括できる才能を見つけ出し、連れてくるのがプロデューサーの仕事だ。少なくとも個人的には、観客にとってジブリの魔法がまだ効力を保っている限られた時間を費やして、悠長にスタジオポノック内の才能を、劇場公開作という大舞台でテストしている暇はないように思える。まだこのスタジオは、プロデューサーを含めて、自分たちの作品に対して客観的な目が持てないでいるのではないだろうか。何より、「大傑作を作って世界を仰天させてやる」という、多くのやる気ある映画人やアニメーターにあるはずの気概が、覇気が、野心が、熱いハートが、ハングリー精神が不足しているのではないだろうか。

 米林監督は、スタジオジブリで『思い出のマーニー』(2014年)を監督したときに、「僕は宮崎さんのように、この映画一本で世界を変えようなんて思ってはいません」と発言している。たしかに、映画一本で世界は変わらないかもしれない。だが、それを最初から諦めてしまって良いのだろうか。宮崎監督ですら、多くの観客やクリエイターに影響を与えながらも、「世界を変える」というところまではできてない。しかし、それを目指しているからこそ、「不世出」といわれるまでの高い領域に届き得たのではないのか。まず受け継ぐべきは、熱いスピリットであろう。

「あーそぼ、あーそぼー、小さな英雄あそぼー♪」

 木村カエラが景気よく歌うエンディングテーマにのせて、サワガニの兄妹、少年、透明人間が、観客に向かって手を振りながら、本作は終了していく。手を振るキャラクター以外の映像はCGで作られているため、キャラクターを差し替えればシステマティックに次の短編劇場を制作することができるだろう。西村義明プロデューサーによると、ポノック短編劇場は、短編作品を発表していく新たなレーベルとして立ち上げたのだという。

 新たな才能を発掘する場が増えることは喜ばしいことだ。しかし今回の短編劇場を見れば分かるとおり、歌やオープニング、エンディングの映像など、一見子ども向けに作られているように見えながら、実際には子どもの観客が大喜びするようなものを提供してくれないというサービス精神の欠如と、世界のアニメ巨匠監督のような芸術性を目指すようにも思われない方向性で、今後スタッフたちがローテーションするようなかたちで、ずっと作り続けられるのだとするならば、それはプロの態度でも芸術家の態度でもない。スタジオポノックには、まず観客のことを第一に考えてほしいし、その優れたノウハウを活かしながら、より正しい方向でアニメーション文化を振興することを期待している。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『ちいさな英雄―カニとタマゴと透明人間―』
全国公開中
・『カニーニとカニーノ』
監督:米林宏昌/音楽:村松崇継/声の出演:木村文乃 鈴木梨央
・『サムライエッグ』
監督:百瀬義行/音楽:島田昌典/声の出演:尾野真千子、篠原湊大、坂口健太郎
・『透明人間』
監督:山下明彦/音楽:中田ヤスタカ/声の出演:オダギリジョー、田中泯
エンディングテーマ:木村カエラ「ちいさな英雄」(ELA/ビクターエンタテインメント)
プロデューサー:西村義明
企画・制作:スタジオポノック
スタジオポノック・日本テレビ・電通提携作品
配給:東宝
(c)2018 STUDIO PONOC
公式サイト:ponoc.jp/eiyu

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