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現代を生きる私たちは何を直視すべきか? 『検察側の罪人』が投げかけた問いを考える

リアルサウンド

18/9/13(木) 12:30

 石田ゆり子、古市憲寿、三浦瑠麗、鳥越俊太郎、立川志らく、遠藤憲一、山口真由、ロバート・キャンベル、尾木直樹、佐藤優、有村昆、ホラン千秋、堀江貴文、コシノジュンコ、茂木健一郎……。映画『検察側の罪人』の公式サイトやポスターには、こうした人々からの感想が載せられている。活動領域も、思想も、専門も、世代も全く異なる人々が、思い思いに作品を評価している。それは、この映画がそれだけ様々な視座から楽しんで、考えることができる作品であることを示しているのかもしれない。ただ、先に挙げた人々の作品評の中には、頻繁に出てくる言葉があった。それが“正義”だ。

参考:木村拓哉と二宮和也の組み合わせを楽しむだけではない 『検察側の罪人』の“異様さ”を解説

■私たちは“正義”についての作品を観続ける

 映画に限らず、古くから正義についての作品が作られ続けてきた。そもそも絶対的な正義なんてない(とされている)。それでも、『検察側の罪人』のような映画を観るたびに、「正義について考えさせられた」「真実にどれだけの意味があるのか」「あるべき制度の形とは」といった思いを巡らせる。そして今回の、木村拓哉演じる最上毅らの姿もまた、正義について考えるきっかけとなった。

 一部の人々を除いて、日常生活で正義について深く考えなければならない状況は、あまりない。だからこそ、“正義”や、“大義”や、“真実”についての葛藤は、自分たちには何ら関係のないこととしてしまいがちだ。ただ、例えばテレビで連日流れているようなニュースを見ると、私たちが絶対に“最上的ダークサイド”に堕ちることはないとは言い切れない。「こんな馬鹿げたことをやるわけがない」と思っていても、実際に“一線を超える”人間は思いのほか多い。正義や大義には絶対的な答えが与えられているわけではない。それは裏を返せば、“都合よく解釈する余地がいくらでもある”。だから、“正義”や“大義”は、例えば自分の行動を自分自身に納得させることに使われる可能性がある。

 それが企業の中であれ、学校の中であれ、チームの中であれ、“一線を超える”人間はいつも、いかにも危険なオーラを放っているタイプというわけではない。それこそ、“虫も殺さぬ”顔をしていることも多い。周りの人々と同様に、食事をし、家族を持つ。『検察側の罪人』でも最上には家族がいる設定になっている。最上とその娘(山崎紘菜)の会話はありふれた父娘のやりとりである。

 最上もまた正義を振りかざしたが、正義や大義は、ある場合においてはとても“便利”なのだ。もちろん私たちがみな最上みたいになるわけではないが、それらに頼ってしまう自分と私たちは隣り合わせで生きているとも言える。『検察側の罪人』のような映画が提供する問い、それは「正義とは何か」というよりも、「どうして私たちは正義について考え続けなければならないのか」の方が相応しいのかもしれない。というのも、正義や大義は時に、危なく“利用”されるかもしれないから。

 私たちは、正義を題材にああでもない、こうでもないと話し合い続けることをするほかない。というより、していかなければならない。自分の唱える正義に固執し続けるのでもなく、「正義とはいろいろな形がある」と何も考えないのでもなく、ひたすら考え続けて、それらをエゴにとどまらないようにするべく、人と対話を重ねること。どうしたら可能な限り悲劇を減らせるのか、考え続ける意義はある。

※以下、一部ネタバレを含みます。

■最上が抱える矛盾とその恐ろしさ
 弓岡(大倉孝二)は自分の手で殺したものの、最上は松倉(酒向芳)には直接裁きを加えず、あくまで“法で裁く”ことを試みた。ただ、最上がそのために超えた“一線”は、いくら自分の信念に基づく目的があったとはいえ、あまりにも多大な労力を要する上、大きな危険をはらんでいる。

 最上の一連の行為の動機の一つには、もちろん、かつて親しくしていた由希(長田侑子)の死がある。ただ、その由希を殺されたことへの憎悪と、“法の目をかいくぐる人間がいてはならない”というある種の正義感が極めて歪んだ形で結びついていった。法を犯したものは、しかと法で裁かれなければならない。この考えは、額面通りに受け取れば最もなことのようにも見える。“バレなければいけないことをしても良い”といったことはないに越したことはない。しかしこのような最上的正義が、自分の怨嗟と結びついた時、暴走は始まる。沖野(二宮和也)に作り上げた虚構のシナリオを滔々と語るときや、秘密裏に動く橘(吉高由里子)に怒鳴り散らす際の最上は、あまりにも不気味だ。そこにはためらいも臆面もないからだ。

 一方、最上自身は何からも、誰からも苦しめられていないかと言われれば、そうではない。戦場で友人の丹野(平岳大)と肩を支えながら歩くシーンや、弓岡を銃殺する瞬間のシーンの最上は、弱く、臆病で、脆く見える一面が垣間見える。こんなこと、冷静になって考えたら馬鹿げているのに、やらなくてはならないのは何に、誰に原因があるというのか。法、システムのせいなのか、松倉のせいなのか。いろいろと解釈する余地はあるだろう。ただひょっとすると、最上自身が最上を苦しめ、囚えていたのかもしれない。正義を説き、そのためには“一線を超えるべきだ”という自分と、それに従わざるを得ない自分。目的が何であれ、松倉が友人を殺めたことは許されないが、自分が裁判を経ずに弓岡を殺すことは許され得るというのでは、辻褄が合わない。最上は、ある意味では一人二役分を背負っているようにも見える。

 インパール作戦の描写が観た人の間でしばしば作品の謎になっており、見方によっては様々であって、ある意味、難解である。最上自身が無謀な作戦に苦しめられた兵士なのか、それとも無謀な作戦に取り憑かれ、その指示を下した側の人間なのか。あるいは、司法といった何か巨大な存在に翻弄される“犠牲者”なのか。それが何を意味し、どうして描かれるべきだったのかは論議のテーマになりそうだ。(國重駿平)

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