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香取慎吾がボロボロになって、逃げ続けているーー『凪待ち』が描く「喪失と再生」

リアルサウンド

19/7/3(水) 6:00

 生きるとは、心の波風が立つことの連続だ。「こんな人だと思わなかった」と他者からの裏切りに怒り心頭したり、「どうして自分はこうなんだろう」と自分自身に裏切られて情けなくなったり、「なぜこんなことに」と自然の猛威を前にただ立ち尽くすしかなかったり……。もちろん「こんな発見があったなんて」という、いい意味での裏切りもある。良くも悪くも、私たちは裏切り、裏切られながら生きている。だからこそ、波風の立たない平穏な“凪”の瞬間が尊く感じるのだ。

 香取慎吾主演の映画『凪待ち』が6月28日より全国公開した。この映画は、出だしから「みんなの慎吾ちゃん」というイメージをことごとく裏切ってくる。スクリーンに映し出された香取は、現実から目を背け、ギャンブルに、酒に、暴力に逃げ続けている男の顔をしている。私たちが知っている、あのキラッとした目の輝きも、キュッと上がった口角も、どこにも見当たらない。その裏切りは、心に小さなさざなみを立てながら、徐々に彼が新境地を切り拓いたのだという喜びの波となって押し寄せてくる。

【写真】ボロボロになっていく郁男を演じた香取慎吾

 ただ、そんな新しい風を感じながら、“国民的スター香取慎吾“という陽のイメージと、今回香取が演じた郁男の陰鬱としたイメージのギャップに「裏切られた」と思うのは、私たちが勝手にそう「期待していた」だけだったのではないか。

 香取に対して「こうあってほしい」という幻想。その期待に応え続けてきた香取。だが、もしかしたら私たちが見えていなかった、または見ようとしなかっただけで、香取の中にもずっと郁男はいたのではないか。むしろ「どうしようもないヤツだ」と眺めながらも、私たちの中にも郁男はいるのではないか……そんな心の中に波風を立たせてくれる映画だ。

■郁男の苦悩に見る、平成の「喪失感」

 郁男は、恋人の亜弓(西田尚美)とその連れ子の美波(恒松祐里)と3人で暮らしている。「いつか一緒に」と約束した南の島の名前も思い出せない。愛しているけれど、大切にできない。自分のことも、周囲の人のことも。一生懸命になれる仕事も、人生で成し遂げたい何かも見つからない。いつからそうなってしまったのかさえ、思い出せない。それくらい長いこと、ちゃんと生きることから逃げてきた男だ。

 定職に就かずとも生きていける、結婚をせずとも暮らしていける。その自由度の高い社会は、ひとつの「幸せ」に縛られないいい世の中とも言える。だが、「これが幸せ」という画一的な価値観が喪失された先に、では「何が自分の幸せか」を見つけられない人々も少なくないように感じた。

 逃げることができるようにはなったが、逃げた先の道標は誰も示してくれない。一般的な「幸せ」の形を喪失しただけで、新たな「幸せ」が再生されていない。命は続けられるけれど、生きているとは実感できない毎日。特に、平成の時代は大災害に幾度となく見舞われ、その復興に苦戦していることも重なって見える。

 郁男も、東日本大震災の傷跡を抱えながら生きる街・石巻にやってくることになる。巨大な喪失の前に、郁男自身も再生していくような兆しが見えた。だが、過酷な試練は続く。闇を嗅ぎつけるかのように、暗い誘惑がつきまとう。

 選択のカードをめくるたびにズブズブと環境が悪化し、やがて取り返しのつかない悲劇へと繋がってしまうのだ。失意のどん底にいる郁男は気づけば、自ら進んで闇深い沼に足を踏み入れているようにも見えた。「俺はどうしようもないろくでなし」「俺は疫病神」「俺がいると悪いことが舞い込んでくる」。まるで言霊のように、その発言が現実の郁男に降りかかる。

 絶望を味わったことがある人なら、同じような心境に陥ったことがあるのではないか。同じ闇の中にいる人の言葉しか聞こえなくなってしまう八方塞がり感。視野はどんどん狭まり、冷静さを失い、自分を大事に思ってくれる人の手を振り払い、ここが自分の居場所だと言わんばかりに、苦しい環境から出るチャンスを拒んでしまう。どうせ変わらない、どうせ明日も同じことの繰り返し……そんなふうにどこか諦めてしまう感覚がとても“今っぽい“。郁男の弱さは、現代を生きる誰の中にもあるものなのだろう。

 人は、誰もが失敗し、迷い、打ちひしがれることがある。どんなにいい人であっても、どんなに実直に生きてきた人であっても、そしてどんなスーパースターであったとしても、不条理な人生の荒波が全てを飲み込んでしまう瞬間がある。その抗いきれない大波に見舞われたとき、どうすれば心の凪を待つことができるのか。

■香取の転機ともリンクする「再生」の令和へ

 この映画は、ある種のパラレルワールドかもしれない。自分たちだって、いや香取慎吾でさえ、一歩間違えていたら……と、ゾワゾワするリアルな闇。堕ちていく郁男を、見るのはとてもしんどい。“あの香取慎吾が演じているのだ“と時々フィクションであることを思い出させてくれるからこそ、見続けられた部分もある。それでも恋人のへそくりをコソコソと抜き、酒をあおって祭りの会場をふらついたり、殴られ続けて血まみれになる姿は衝撃的だった。

 私たちは平成の30年間で、香取慎吾という人に「善意」のようなものを投影してきたところがある。心に残る歌でみんなを勇気づけ、大きな災害があれば率先して復興支援を呼びかけ、パラスポーツの魅力を発信していった……他にも挙げたらきりがない。老若男女の誰もがハッピーになれるように、エンタメの最前線を駆け抜けてきた人だ。どんなときも、もがきながら新境地を開拓してきた。「逃げない男」、それが私たちの知る香取慎吾だ。

 その香取が、ボロボロになって、逃げ続けている。行き先もわからぬままに。香取自身も「ゼロになる」喪失を経験したひとりだ。平成に築き上げたものを、一旦手放す覚悟をした。もちろん、現在の活躍を見る限り、新たな船出は多くのNAKAMAに支えられ、誰もが想像していた以上のチャンスを掴んでいった。だが、その当時の彼はいつだって「必死だ」と連呼していたのを思い出す。

 奇しくも、この作品を撮影したのは、そんな香取が必死にもがいていた時期だ。彼自身の大きな転機と、この映画のテーマとなっている「喪失と再生」がリンクし、この作品に大きな説得力が生まれた。郁男の表情が、鬼気迫る演技でもあり、彼のホンネなのかもしれないと思うと、より一層胸が苦しくなる。

 香取は言う「大変じゃないものってあまりない。大変じゃないってあんまりつまんないじゃないですか」。逃げながらも命を続けていくことはできる現代の日本。しかし、地に足を着けて「生きてる!」と胸を張って笑えるか。時代は、喪失が多かった平成から、新しい令和へと移った。ここから私たちの新たな「再生」が始まるのだろうか。

 郁男のこれからがどうなるかは、わからない。それは、観客1人ひとりの人生と同じ。だが、この映画を通じて郁男のような弱さが私たちの中にもいること。そして香取が見せてくれた、苦悩の時期こそ新境地を切り拓くという生命力の強さ、「こんな自分にもなれるんだ」という自分自身の予想を裏切り続ける生き様そのものに、私たちは「生きる」を手に入れるヒントと力をもらったように思う。

(佐藤結衣)

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